ターゲット層である自分がまんまと『美大生図鑑』を買ってみやる。
ある日、顔なじみの編集の方から「やられちゃいました」というメッセージが届いた。
そこには『最後の秘境 東京藝大 天才たちのカオスな日常』という本のリンクが添えられていた。
以前、自分が美大出身であるということで、なにか芸大美大に関する本を出せないだろうかという話になり、色々と話している中で「芸大生って卒業したらどうなるのか謎じゃない?」みたいなことで盛り上がり、それを本にしようみたいな企画書が上がったのだ。
『最後の秘境 東京藝大 天才たちのカオスな日常』はまさにそういう本だった。
しかも売れてるらしい。。。
あのとき頑張ってリサーチして本を出していれば、テレフォンカードの穴をテープで塞いで使うズルなどしない夢の印税生活が待っていたのかもしれないのだ。
「野田さん、どうします?二匹目のどじょう行きますか?美大生あるあるもう一回やってみますか?」
実は、この美大生あるあるというのがそもそもの話の発端だった。
「野田さん、美大生のあるある本で天下取りませんか?」と提案されたのが数年前。
あるあるは本にしやすいらしい。
(天下??と思いつつ)「やりましょう!」と言いながらも、本を一冊作るほどの、有り余るネタが自分にあるのだろうか?という不安が拭えなかった。
いや、ないこともない。
なんだかんだで2浪しちゃったし、それなりに自意識を持ち合わせたヘンテコな人間と対面してきたのだ。
しかし、ネタを上げていけばいくほどそのほとんどがハッタリで、次第に「これって俺が個人的に感じている逆恨みじゃないの?」といった自己嫌悪に突入した。
そうこうしているうちに時すでに遅し。
「二匹目のどじょう行きますか?」と持ちかけられた頃には、すでにドジョウは柳の下から姿を消した。
そのドジョウをすくったのはヨシムラヒロム。
吉村作治、
吉村明宏、
に続く"三大ヨシムラ"の一人である。
自分が<美大あるある>を持ちかけられたとき、自然と協力者として頭によぎった人物だった。
おそらく、僕の中では彼こそが美大生あるあるそのものだったのだ。
メガネでおかっぱ頭という「イカニモ」な姿で、手当たり次第にこの世の誰かを辟易させてきたであろうことは言うまでもない。
格闘ゲームのステージの後ろの方で、ずっとおどおどしているモブキャラのような頼りなさが彼の持ち味であり、名前を全部カタカナにしているあたり、三大吉村の中でもっとも潔くはなく、モテようとしている節すらがある。
そんな彼が先日出した本がこれだった。
『美大生図鑑』
https://www.amazon.co.jp/dp/B06XT3RCCR/ref=dp-kindle-redirect?_encoding=UTF8&btkr=1
美大生のあるあるをまとめたイラスト満載の一冊である。
自分が何も苦労していないのに、勝手に本が出来上がってしまった「小人の靴屋」的感覚だった。
彼の協力なくしてはできないと思っていた本を、彼は一人でやってのけてしまったのである。
ここは素直にひがみたい。
(よく素直に拍手を送るというが、素直にやるならひがむべきだよな)
さて内容だが、<はじめに>からいきなり激しい共感に見舞われた。
「こう書くしかないんだよね~」という著作者への共感だ。
本書をいかに実用書としてポジショニングさせるかが垣間見え、書き手としてはそこを外さないようにすることが第一義であり、その辺がしっかりと書かれていた。
なぜこの本がこの世に誕生したのかをしっかりと明記させ「役に立つのだ」というはったりをかまさなければ、実は書き手も不安だったりする。
読む方はあるあるを楽しめばいいのだけれど、作る方はただあるあるを書くだけでは不安なのである。なにかしら文化的意図がないと、プロジェクトが中断する可能性すらあるのだ。最初の思いつきだけでは、燃料は切れる。自己暗示をしながら突っ走った亡者だけが著作者という権利を獲得するのだ!!
その辺の配慮が、自分のやろうとしていた企画と全く一緒だったのである。
なんのために、そして誰のために書くのか。
本当はそうでなくても、このハッタリが重要なのでだ。
一番最初のあるあるで藝大美大カーストを持ってくるあたりもまるで一緒だった。
つまり美大生が持つ共感覚というのがあって、もし美大を語るなら誰もがこのセンテンスから突入するなのだろう。
そして、それは大方美大予備校で培われる。
小中高と誰かと比べられるのが嫌でたまらない自意識村の住人が、より競争原理の激しい美大の世界に足を踏み入れる。そんな時、精神を崩壊させられた村民たちは予備校講師という神の代理人の御言葉にすがるしか術はなく、そこで語られるのは予備校が違えど異口同音、「汝、藝大こそ一番である」。
その宗教性がバックボーンにあるからこそ、美大あるあるが成り立つわけだ。
とはいえ美大生にも色々あり、彼が彼なりに考察している部分がやっぱりおもしろい!!!
彼は彼でしっかりとした美大生活を送っているのだなぁと羨ましくなった。
美大に対しての愛すら感じた。じゃないと毎年母校の芸祭通うことなんてできない。
彼にはこの本を作る資格があったのだ。自分には美大への愛情が皆無であり、この本はやはり無理だったのであろう。
因みに自分は武蔵野美術大学の映像科であるか、あそこは美大でない。
この本でも、武蔵野美術大学の映像科については一切書かれていなかったことがさらにその仮説を裏付ける。
<05 学科でキャラが全然ちがう>
「ファイン系」と「デザイン系」。美大の学科は大きくこの2系統に分けることができる。
ってあるある項目でも、映像科生徒のイラストはない。
通信の生徒のイラストはあるのにである。
実は、映像科は「ファイン系」と「デザイン系」のどちらにも属さない。
映像科の生徒は自分たちをどちらにも区分けしていない唯一の生態で暮らしているのだ。
その辺は専門書でないと書ききれないので、きっと本書では割愛したのだろう。
映像科の生徒は一般大の滑り止めでくるような連中ばかりなのである。
だから、ヨシムラヒロムが何か美大の中でコンプレックスを抱えていようとも、それは美大の中にしっかりと属しているが故のコンプレックスであり、そもそも映像科はその輪の中に属していない。
その証拠に、映像科の生徒はどんなにがんばっても教員免許を取得できないというイジメを受けているのだ(今はどうだかしらないが)。
自分はまだ一浪の時に油画科を専攻して、藝大を目指していたから、本書のあるあるたちにどれも共感できるのだが、純度高めの映像科生徒はおそらく他の国の出来事のように感じることだろう。
ここに来て、自分の話になってしまったが、結局は自分の話でいいのだ。それをどうどうと仮説として打ち立て、言い切れるメンタルがあるかどうか!!
この本に彼の芯の強さを感じました。
自分にはそれができなかったのです。おそらく愛がないからでしょう。
僕の周りでは、ヨシムラヒロムは苫米地英人の次に天才です。
さて、彼はただ本を出して満足するような男ではあるまい。
おそらくこの美味しい素材を使って次の展開を考えているはずだ。
そこでシーズン野田からの提案は、「美大生図鑑」の映画化である。
映像科ネタを総スカンした本書を、映像化するのだ。
とにかく映像コンテンツにし、全国の美大を回り上映をする。
そして配信するだのDVDにするだのして、展開しまくり儲けようではないか。
・・・・まさかここまで考えてたりして?
ということで、美大生諸君は、就職せずにがんばって本を出したヨシムラ君を応援しないとあまりに夢がないよ。君らのことが書いてある本なんだよ。全員買えよ。
美大生って他人に興味ないからなぁ。。。。ってあるあるって書いてあったっけ。