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さておかれる冗談

脚本家でイラストレーターのシーズン野田が綴る「活字ラジオ」。たまに映画を酷評し気を紛らわす悪趣味を披露してます。http://nigaoolong.com/index.html

思想のウラー  シーズン

自分には思想や哲学というものが全く見当たらない。

趣向だけで生きている気がする。

感情だけというか、ポリシーとかルールとかそういった枠組みが見当たらない。

毎日何かを続けているということもない。

右だの左だのほざいても、別に感情的に右往左往しているだけで、やはりそこには信念というものが欠落している。

価値に序列をつけるのも面倒くさいし、責任を負いたくないという、戦後民主主義に毒された相対主義ニヒリズムがしっかりと植え込まれていることに気付く。

本を読んでも何にしても、頭の中には何一つ入ってこない。

自分を照らし合わすことのできる教養も含蓄も経験も持ち合わせていないから、そんなもんなんだろうなぁと、なんでも妙に納得し、知ったような気分になるのだけれど、実感がともなわず、これもそうだし、あれもそうだと、結局のところなにひとつ批判出来ずに肯定するか否定するかしかなくなってくる。

リベラルきどってやんのさ。

実際生きている人間なので感情だけはあいにく持ち合わせているから、それに従うことは出来るが、主義や思想は自分の「好き嫌い」などに捕われてはならぬものだろう(究極は好き嫌いかもしれないが)。

加藤ふりかけ曰く、情報化社会からコンセプチュアル社会に変わっていくらしいです。

既存のシステムや価値が空洞化し、前提をつくれるものこそが勝者になれる社会だそうです。

何がヒットするかもわからないし、やって無意味なことはないという社会。

なんでもありな社会。

けれども、人間というのは、何かにすがる帰属意識から逃れられないし、レールを踏襲しバージョンアップを図るような前提やとっかかりを求めてしまう。

そこにつけ込むのがマニュアル本だったり「SPA!」だったりするんだろうけど、逆に言うと、これさえやっていれば大ジョブ大ジョブ!っていう、未来のビジョンや価値を束ねられる思想が出て来たら、いっぺんにそちらに流れる可能性もあるだろうし、多くの層がそんなビックウェーブを求めている時代とも言えるのかもしれない。

けれども、構造的にそれはあり得ないだろう、全てが自明的にシステムにのっとって処理され、相対化されてしまったのだからね。

自分がこうなったのも時代のせいなんだろと思う。

けれども、そんな時代に波風をたてるべくしてにがウーロンは存在しているのだから、自分は何かかっこたる信念をもってないとダメなんだろうと思う。

借り物でない言葉やカタチ。

信じれるのは「笑い」だけだ。