ごケツ婚 シーズン野田
料理ってのはさ、その料理自体の味がもっとも重要なんだろうけど、誰と食べるのかってのがそれ以上に重要だと思うんですね。
多少味が微妙でも、好きな人とその場を共有できる喜びで、余計においしく感じたり、その逆もしかり。その逆は説明しませんが、味覚ってのは気持ちの問題で左右されるわけです。
あまりにまずくて、逆に関係が気まずくなることもあるでしょうけど、それはその程度の関係だって事です。
「うまいもんでも食いにいこうよ」と言われて、
「うまいもの??いくいく!」
ってなる人は
「うまいもの」
にだけ反応しているのでしょうか。
誘ってくれた人が誰か?
その事の方が重要ではないでしょうか?
「ウンコに誘われるウマいものと、人間に誘われる不味いもの」
という極論においても答えははっきりしていると思います。
まず、ウンコに誘われるということは、その人は
「ウンコに飯を誘われるような下等生物である」
と認めてしまう事になるし、また、ウンコが誘ってきたという奇異な状況を飲み込んでしまうという人格への懐疑が当人への不信感につながり、社会的生活を全う出来ないリスクを背負うはめになる可能性が高くなります。
それに、例えものすごい美味しい食べ物も、目の間にウンコがいるという状況で出されると、
それはもうウンコと同義とすら言えるし、
その店にいくまで、ウンコと一緒に歩いたり、そもそもウンコが歩けるのかとなった場合、
その多くはウンコを肩に乗せて歩く訳ですが、そしたら服につくし、
周リには迷惑だしとうまいものなんてどうでもいい状況になっていまいます。
そう考えても、やはり、ウンコの誘いに乗るべきではないし、そもそもウンコが誘ってきたら、その状況自体を疑うべきなのです。
それよりも、多少料理にウンコが混ざっていても、人間と食べるご飯がはやり美味しいのですね。
そうなりゃ、ウンコもカレー味です。
ここまで言っといてなんですが、ウンコが混ざった料理が出る前提に立つと、ちょっと嫌かもしれませんね。
僕なら、その日はキャンセルします。
けれど、料理が出されるまでにはまさかウンコが混ざっているなどと、糞ほど思わないので、その前提に立つのは不可能な話なのですが。
なんならウンコが誘ってきた料理にこそウンコが混ざっているだろうと思ってしまうのですが、
ウンコはこの場合、究極のメニューを提供してくれるのです。
けれども、「究極のメニュー」ってなった場合、それはもうウンコなのかも知れないと思うと終わりがないのですが。
先日、友人の結婚式での料理ははやり格別に美味しかったです。
それは料理もおいしいのですが、やはり祝いの気持ちと喜びが余計に美味しくさせるのだと僕は思いました。
例えそこにウンコが出てきても僕はきっと美味しく感じたと思います。
なんなら少しウンコにすら見えます。
僕はこの一言が言いたくて、ウンコがどうこう言ってたんだと思います。