所詮男は、女を理解する事はできないのだろう。
今週のお題特別編「素敵な絵本」
子供の時、幼稚園の方針もあってか、とにかく絵本を読みまくった。
毎日、たいやき君が鉄板の上で焼かれている間も、自分は絵本を読んでいたのだ。
けれどもその大半は全く覚えていない。
読んで無いのに等しいくらい、記憶からその内容はふるい落とされ、読んでいたという行為のみが淡い記憶として残っているだけだ。
今思いつくだけ挙げてみる。
「ばばばあちゃん」
「グリとグラ」
「象の卵の卵焼き」
「大きなかぶ」
「バーバ・ヤガー」
…う〜ん出てこない。言われれば思い出すだろうが、意識的に記憶の引き出しを開けてみても、表紙があるこのはこれだけで、あとは全て絵本サイズの四角いお餅。
なぜお餅なのかはさておき、それでも思い出そうとして思い出たこの絵本達のなかでも、一際異彩を放っているのが「バーバ・ヤガー」である。
まるで、タイポミスのような言語感ではあるが、あの頃の記憶の一つとして深く刻印されていた、と言う事実に、現時点で驚いている。
それ以外は誰でも知っているんじゃなかろうか。
なぜ、その他おそらく読んだでだろう、多くの名作を押しのけて、この本の記憶が蘇ったのか。
20年後に、浜崎あゆみの空港芸を覚えているようなものである。
とはいえ、表紙のイメージはあるものの、内容の記憶が曖昧で、日本で言うところの「三枚のおふだ」と構成はほとんど一緒で、たしか「バーバ・ヤガー」はヤマンバだったはず…くらいしか覚えていない。
気になり調べてみると正確には「まほうつかい バーバー・ヤガー」であった。
↑懐かしい表紙…。これですよ、これ!
知ってる?
バーバー・ヤガー。。。
やはり、非常にインパクトがあるの表紙というか、タイトル。
ヤマンバではなく、平仮名で「まほうつかい」だったのか。
いきなり、「三枚のお札」とごっちゃになっていたようだが、「バーバ」の中に「ヤマンバ」的ニュアンスが読み取れるから、この記憶違いも無理は無い。
ロシア民話なのか。
しかし、不思議である。
ロシアの民話が、日本の昔話と似ていて、しかも敵が両作とも「ババー」。
鬼でも天狗でもない。
敵はババー、つまり老女(妖女)なのである。
よくよく考えてみると、敵がジジーであることってあまり無いように思う。
どちらかというと、ジジーは良いイメージで語られる事が多い。
例えば、「ピノキオ」のゼベットじいさんも子供が欲しくて、ピノキオを作り、とてもかわいがっていた優しい人だし、
「ヘンゼルとグレーテル」でも、ジジーにこの兄弟を捨ててこいと命令したのは継母つまりババアであるし、お菓子の家に住んでいたのもババアの魔女で、しかもジジーはのちのち捨てた子供を捜しにいく、結果いい人であるし、
「三枚のお札」でさえ、最後坊主を追いかけてきたヤマンバをやっつけてくれるのは、坊主の師匠、つまりジジーである。
対してババーは、あまり良い印象がなく、やさしいのはのび太のおばあちゃんと、ばばばあちゃんくらいで、ほとんどが「やっかいなもの」として描かれてはいまいか。
ジジーがこちらを見ているよりも、ババーがこちらを見ている方が、何割増か怖いし、ひざにできた人面瘡がジジーの顔より、ババーの顔の方が消えなさそうである。
アダムスファミリーでも、女性のキャラの方が断然怖いし、ジジーゾーンより、ババーゾーンの方が、漫画にしやすそうだ。
元都知事の石原慎太郎の「ババー発言事件」そうだ。
以前、都庁の前を通りかかった時「ババアー発言を撤回せよ!」と声高に叫んでいた「ババー」の群れを見た。
撤回せよということは、ババーだという自覚があるからこそなのに。。。という矛盾など一切おかまいなしのその姿は、ものすごい執着で、たしかに<ヤマンバ>のようであり、非常にやっかいだった。
これに対してジジーが「ジジー発言撤回せよ!」なんて、声高に叫んでいる絵面は想像しづらいことからも、ヒステリックに怒り叫び、山の中を延々追いかけてくるのはババーでなくてはならないような気がしてくる。
女は旦那が死んで元気になるが、男は妻が死んだら弱ってすぐ死ぬ。なんてことをいうが、日本でもロシアでも、ババーには得体の知れない生命力が備わっており、それに地球規模で手を焼いているのかもしれない。
だから石原も「文明がもたらしたもっとも悪しき有害なものはババア」なんて事を言っちまったのだろうし、絵本や寓話においても、ババーが敵役として跋扈するのだろう、という邪推をしてみるが、
普段、普通に生きているとけっこうやっかいのなのは「ジジー」の方であったりする。
店でキレているほとんどはジジーであるし、ジジーは人の話をまず聞かない。説教も多い。
しかし、このやっかいさの裏に見え隠れするなんとなくの<意味>を理解することはできそうであるが、ババーのやっかいさの<意味>についてはそうはいかない。
近所のカミナリ親父の意味はわかるが、騒音おばさんの意味はわからないのだ。
だから、怖い。
だから追いかけてくる。
バーバ・ヤガーはその少女を食べようと死ぬまで追いかけてくるが、ジージ・ヤガーは、途中で疲れて「全く、最近の若者は…」と呆れながら、ビーフジャーキーで我慢してしまいそうだ。
私のような男が、女のことを理解できないだけなのだろうか?
しかし、きっと女は女を理解できるのだろう。
そのあまりに深淵な女達の共有感に対しての恐怖心が、このような妖女を生み出しているのかも知れない。この恐れが石原のあの発言達もそうに違いない。(故に作者は全て男である)。
宮崎駿の女性観こそ男の理想であり、そうでないものは、全てヤマンバ。
理解しがたいものとして、別枠に移動させ、ただただ安心したいだけなのかもしれない。
とくにロシアではもっと顕著なのかも。
だって、バーバ・ヤガーって臼に乗ってるんだって。
まじ意味がわからない!!臼って!!!
↓餅か!と心でつっこんだひとは押して下さい。