心が思って、体が書く、そんな春のブログ。
春が嫌いです。
というか、春が嫌いでした。
新しい出会いを肴に酒を飲み、居酒屋の前で二次会に行くかいかないかをぐだぐだと話し合いながら、なかなか動こうとしない大学生どもや、
満開のサクラを肴に酒を飲み、普段はろくに料理なんてしないくせに、ここぞとばかりに「ありあわせ」を強調した手作り料理を披露する愚女どもと、「これお店で売れるよ」とプロデューサー風味で先見の明を発揮しその料理をほめまくる愚夫ども。
そして、今まで寒かったのにもかかわらず、そろそろ本腰入れ始めるかと、毎年毎年、バカみたいに冬の次に春を持ってくる行動パターンを変える事のないコンサバな地球に、腹が立ってしかたがありませんでした。
その浮かれ具合を見ていると、「お前の沈み具合がより強調される季節の到来だな、へへへっ…人間ておもしれ」と自分の中のネクラがデスノートの死神のようにひょっこり顔を出すのです。
「僕はキラじゃない」と言っても、たまーに藤原竜也に似ていると言われ複雑な気分になる始末です。
それって別に自分だけではなく、五月病と言うくらい、多くの人に当てはまる感覚だと思うんだけどね。
しかしながら、年を重ねるにつれ、だんだんと春を待ちわびている自分がいました。
子供の頃は、湯葉を一枚羽織っていれば寒さなん全然かへっちゃらな中肉中背の肥満児だったのですが、年月を経て歳を取ると、体が寒い事に体が耐えられなくなってきたのです。
あまりに寒い日は空に「ファックキュー」と中指を突き刺し、通りがかった肛門科の医者に「うちで働かないか?」とスカウトされる程になりました。
宇宙の偶然が人類誕生をもたらしたのではなく、ただ寒がる必然のために我々は生まれたのではないかと邪推し、夜は涙で枕を濡らす事もしばしばです。
まあ一言でいうと、寒いのが駄目になり、その分春が好きになったということなのですが、それによりわかったことがあります。
肉体と精神は深く密接につながっていることがね!
若い時は、春は鬱っぽくなるという気持ちのせいで、体に気だるさや無気力感を覚えさせるという<精神性発進>だったのが、
年をとると冬の寒さの厳しさが体を脅かし「世界への憎悪」を喚起させるのと同様、春の温かさが体を満たす事で地球への感謝へと繋がる<肉体性発進>に変質し、肉体が健やかでいることが、心に平穏をもたらすのだということが感覚的に分かってきたのです。
今までは精神を鍛えるのは山とかで何年も過ごして修行しないとだから難しいので、自分は一生大人にならないモッコリピーターパンでいようと、社会へのコミットを諦めていたのですが、ここにきて、
身体を整える事が、精神を整える事だと気がついたのです。
肉体なら、がんばれば鍛える事ができるかもしれません。
これは知り合いが、知り合いのお坊さんの知り合いの僧侶に聞いたと言う話なのですが、
「火事を火で治める事はできねーだろ?洪水も水で治める事ができねーだろ?それと一緒で、気持ちが病んでる時は、気持ちでどうにかしようってのは無理なんだよな。体鍛えねーとな。おもしれーよな」
おもしれーよなは、その人の口癖なので本文とはなんか関係ないのですが、なるほどなぁとメモがてら思い書いておきました。
ということで肉体改造をするべく、近所のボクシングジムに意気揚々と向かいました。
ドアを開け中に入ると、汗の臭いが充満し、無意味にパンチとキックをくりかえす兵器見習いと化した男達の姿が。。。
そこは、事程左様に壮絶な「男村」だったのです。
直感的に「無理!」と思い、今までで一番大きな、お会計を表すバツ印を作っていました。
白鶴まるのCMで、矢崎滋が繰り出すあの大きな「まる!」に匹敵する程の「バツ」印です。
受付のお姉さんが「見学していきますか?」
というので、「あ、いや、そのパンフだけとりあえず下さい」となるべく目を見ずにボッソとつぶやき「私は決して敵ではありません」という逆ファイティングポーズで間合いを取りながら、パンフを受け取り、一目散で撤退しました。
そして、今日もあるはずもないネバーランドを探す旅にでるのです。
よりネバーランドがありそうな気がする、あたたかい春の日を永遠に。
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