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さておかれる冗談

脚本家でイラストレーターのシーズン野田が綴る「活字ラジオ」。たまに映画を酷評し気を紛らわす悪趣味を披露してます。http://nigaoolong.com/index.html

酷評映画「月光ノ仮面」板尾創路監督作品也!!

映画

ただ今レンダリング中です。

 

ボタンを連打する髙橋名人を思い浮かべた人は、早くその妄想を振り払いまともに生きて下さい。彼はすでにハドソンを退社しています。

 

映像をやっている人なら分かると思いますが、レンダリングをしている時は、なんとなく「休んでもいい」というオカルトが存在するため、ただ今こうしてせこせことブログを書いている次第です。

 

休憩中でも、文字を書くという、なんとも文化的民度の高いシーズン野田ですが、

ツイッターフェイスブックのストレスで、SNSというよりSOSな状態である現代においては、文字に触れる人が多くなったから、文字を書くことなんて別に大したことじゃねーよカス、

と思う人もいるかもやしれませんが、それは、ただの会話の延長としての文字の連なりであるだけで、文章でもなんでもないことを言っておきます。

 

さて、久々に映画をみまくるプロジェクト「映画をミマクロードバンダム!」より、今回も映画をこき下ろしたいと思います。

 

今回の映画は「月光ノ仮面

 

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おいおい、今更かよ!

 

と思う方もいるでしょうが、月光仮面ではありません。

 

「月光仮面」です。

 

 

板尾創路監督作品でございます。

 

これはこれで、おいおい今更かよ!

 

という感じもしないでもないですが、

 

一言、言わせて下さい。

 

「おい板尾創路!あんたは映画をやめなさい!」

 

と、威勢よく、酷評を漂わせる発言からお見舞いしたいのですが白状します。

 

この映画、正直「ぼかぁ大好きだなぁ」と小鼻をかくほど気に入っています。

 

前作の「板尾創路の脱獄王」も最後はシュールに終わり、津田完司がやけにへたくそに感じる映画でしたが、今回もその点に置いては全く一緒です。

 

 

この映画は古典落語の演目の一つである粗忽長屋をモチーフにしています。

 

自分が一番好きな噺です。

 

粗忽長屋」を知らない人等この世にいるとするならば、

外は危険と教えられ続け、シェルターの中で育てられた人たち以外には考えられないのですが、

一緒にこの映画を観ていた奴ら全員が"知らない"という事実に、

それこそ「この粗忽どもめが!」と言い放ちたい気分になったのですが、

まるで落語の世界の中にいるのではないかという気分にすらなったので、まぁ結果よかったです。

 

粗忽とは「バカ」とか「そそっかしい」という意味です。

 

「ソコツ」と読みますよ!アラネギじゃねーよ!わかってるよな!

 

登場人物は落語らしく、八と熊。

 

八は、浅草寺の帰り道中、人だかりに出くわす。行き倒れ(檻身元不明の死人)があったのだ。遺骸を見れば、親友の熊。

 

「おい熊、起きろぉ!」と遺骸を抱き起こす八に、居合わせた<人たち>が「知り合いかい?」と尋ねると、落胆しきった八は「…こりゃ本人に引き取りに来させないと」と、八は長屋の熊の所へすっ飛んでいく。

 

当の熊は相変わらず長屋で元気に生存している。

八から「浅草寺の通りでおまえが死んでいた」と告げられた熊、最初は笑い飛ばしていたのだが、八の真 剣な説明を聞いているうち、やがて自分が死亡していたのだと考えるに至る。

落胆のあまりあまり乗り気ではない熊を連れて、八は死体を引き取りに浅草寺の通 りに戻る。

 

「死人」の熊を連れて戻ってきた八に、周囲の人達はすっかり呆れてしまう。どの様に説明しても2人の誤解は解消できないので、一同頭を抱える。

 

熊はその死人の顔を見て、悩んだ挙句、「間違い無く自分である」と確認するのだった。「自分の死体」を腕で抱いてほろほろと涙を流す熊と見守る八。2人とも本気の愁嘆場、周囲の人々は全く制止できない。

 

と、そこで熊、八に問う。

 

「抱かれているのは確かに俺だが、抱いている俺はいったい誰だろう?」

 

 

 

 

と、めんどくさいのでまんまウィキペディアを参照。

学生は俺をきちんと見習って、レポートに参照元を書きなさいよ!

 

 

先輩から後輩へ、はまぁいいや。

 

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で、あらすじは全然違うのだけれど、この最後の「俺はいったい誰だろう?」という謎がこの映画の肝なのです。

 

この映画のタイトルは文字通り、月光仮面を捩っているわけですが、

ただ捩っているだけではなく、しっかりとそこに意味が込められいます。

 

月光仮面は誰でしょう?」

 

と同じ類いの、「謎」がドラマの要になっているのです。

 

登場人物の素性がわからないのです。

 

ただ「わからない」という具合です。

 

その「わからない」と言う部分が、この映画の下敷きになっている「粗忽長屋」の「俺はいったい誰だろう?」とリンクしております。

 

そこを繋げるセンスがいいよね!

 

大きい枠組みで言うと、人間誰しも自分の事なんて分かりゃしないんだけどね!

 

まぁそう言う自分探しの話ではないのですが、面白いのが、「粗忽長屋」に出てくる、馬鹿役の熊や八だけでなく、その他全員をバカな粗忽者として描いている点です。

 

 

監督自ら演じる「男」は記憶喪失なのかなんなのか、自分が分からない帰還兵。

 

そんな、戦場から帰ってきた「男」を出征前に渡したお守りを持っているという理由のみで許嫁の人気落語家「森乃家うさぎ」と思い込む、女。

 

そうしたら、その他、落語家一味もみんな「森乃家うさぎ」と思い込む。

 

誰もがつっこみたくなる「顔見ればわかるじゃん」が、全く反映されない。

 

大きな理由に、小さな理由が勝つわけです。

 

 

 

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↑顔見れば、わかるじゃん?

 

 

 

とうていあり得ない事が、順序や程度が極端に違うってだけで、さもあり得てしまう様なムードが「シュール」であると思うのですが、まさに監督の演じる男の得体の知れなさがその不条理な世界に説得力を持たせ、ちょっとおかしい事も無理矢理成立させている。

 

しかし、板尾創路の顔とは、なんというか、吉田戦車の世界から飛び出た様な狂気と不条理を孕んでいる気がしますね。

存在がすでにシュールっていうかね。

 

 

 で、<顔見れば分かるじゃん>が反映されないのは、「粗忽長屋」の方もそう。

 

さっきのウィキベディアから参照したあらすじの

 

"「死人」の熊を連れて戻ってきた八に、周囲の人達はすっかり呆れてしまう。どの様に説明しても2人の誤解は解消できないので、世話役はじめ一同頭を抱える"

 

という、このニュアンスは実はちょっと違和感があって、

 

八が熊を連れてきても、誰も「顔が全然違うだろ」という「当然」をやらない。

 

そこを誰も突っ込まない。

 

まぁ、落語は一人でお芝居するわけですから、すっとんきょうな八と熊だけを演じれば成立はする。

 

周囲の"世話役はじめ一同"はそんなに描かなくてもね。

 

けれども、そこにはあきらかに周りがいるという状況なのです。

 

それを映画で描いてみると、「全員、粗忽」になってしまう。

 

その続きをこの映画では、描いています。

 

ひねった見方をしているかもしれませんが、その落語だから許される部分を許さないでやってみる、っていう態度はなるほどって思いました。

 

まぁ見てない人は「なんのこっちゃ」って、感じかもしれませんが、実際この映画、見たら見たで「なんのこっちゃ!」と思うんじゃないかな。

 

けど、見終わった後こんだけ余韻を残して、あのシーンはなんだったんだろう?と考える映画は久々だった気がしますね。

 

なにも考えたくないウンコ垂れ流しのクソバカやろうは、

ハリーポッターでも見て

「エクスペクトパトローナーム!!」

と一緒に叫んでいればよろしい。

僕の中ではこれはこれでエンターテインメントだなぁと思いました。

 

 

他にも色々書きたい事があるのですが、長くなるのでやめておきます。

 

まぁ、騙されたと思って観て下さい。

 

そして、皆さんの解釈をお聞かせ下さい。

 

最後の「ダダダダダ!」はすごい笑えます。

 

 

 

最後に監督に質問。

 

謎の「男」が、偽物の「森乃家うさぎ」であることが、本物の登場で明らかになり、じゃあこの男は一体誰?という答えは、落語と一緒でわからない。

 

けれども、月光仮面の三日月の意味に込められている

「今は欠けて(不完全)いても、やがて満ちる(完全体)ことを願う」

ということから、多分二人で一つの完全体なのではないかとなぁと、察する事ができるのだけれど、どうでしょうか。

 

「最近ずっと満月である」と劇中でも石原さとみちゃんが言っているわけですし。

 

満月の謎だけ、あまりうまく解消してない気がするのですが、どうですかね?

 

 

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