酷評シネマレスラー『チャイナタウン』 シーズン野田
キムチのよーな、キムヨナ。
という駄洒落を思いついて、
この駄洒落が、日韓融合の橋渡しになる事を祈っているシーズン野田です。
さてと、ブログを炎上させるとします。
僕はキムヨナが好きです。
キムヨナがちゅきだから〜〜!
ペチャパイ麻央よりも断然キムヨナの方が好きです。
理由は、かわいいからです。
結婚したいほどです。
日韓の融合よりも、キムヨナの肉感との融合の方が大分気になります。
またまた、ナイスな駄洒落。
彼女が例えば、氷の上でスケート靴を履いて、自由自在に踊れたら、どれだけ素敵なんだろうなと、よく妄想したものです。
一度で良いから、そんなキムヨナを見てみたいなぁ…なんて思ったりします。
まぁ、運動神経悪そうな所がまた、かわいいんですけどね。
バカな男の戯言をお許し下さい。
さぁ、韓国を憎むひきこもりのネトウヨどもよ、好きなだけ炎上させたまえ!
炎上タイムスタート!
さて、今日の戯言はここまでにして、次の戯言を始めます。
つっこみ:結局、戯言なんかい!!
さてさてと、サテトサラダと。
映画をたくさん観まくるプロジェクト
「ミマクロード・ヴァン・ダム」
を発案したからには、ほぼ日で映画をみなければなりません。
ほぼ日といっても、趣味のバス釣りまでゲームにしてしまう、糸井重里さんとは全く関係ありません。
さて、今回の映画は「チャイナタウン」。
70年代の名作として名高い今作は、監督はあのポランスキー。
主演はあの、ハリウッドの加藤茶こと、ジャックニコルソン。
かとちゃん扮するジャックニコルソンがさらに扮する探偵ギテスが、事件の謎を解決していく様と、周囲の人間模様が描かれた古典的名作です。
なぜこの映画を鑑賞したのかと言うと、
シドフィールドが、ごり押ししてくるからです。
シドフィールド、知ってますか?
脚本書いている人なら知らない人はいませんね。
まぁ一言で言うと、脚本オタクのオッサンです。
オタクすぎて、シナリオの書き方とかをいっちょまえに教える本とか出してます。
で、その人の本の中によく出てくるのが、
自分の股間がいかに立派かと言う自慢話と、映画「チャイナタウン」。
前者はうろ覚えだけど。
ということで、ようやくシーズン野田シアターでも上映させていただきました。
シドさんは、30回以上この映画を観てるらしいです。
いまだに見直すと鳥肌が立つらしく、見る度に違う発見があるんだって。
「我が子か!!」
といいたくなりますが、知り合いに「ファイトクラブ」を200回以上見てるファイトなヤツもいるので、オタクからしたら普通のことかもしれませんが、同じ映画をそんなに見てるのなら、松村のアウトレイジみたいにシーンモノマネの一つでもできなきゃただの無能だと思います。
さて、シド曰く、
「チャイナタウンは、ストーリーや人物、歴史的背景、視覚的ダイナミックさもさることながら、なによりも脚本技術を芸術の域にまで高め、レイモンド・チャンドラーからの様式と伝統をうけついだ、映画としても素晴らしい、ミステリースリラーである。ただし、私の股間にはかなわないがね」(シドフィールド著作より)
と太鼓判を押しています(股間の事言ってたね)。
あのシドっちが絶賛する映画ですから、ハードルがズドーンとあがりまくって、大気圏に突入してサンドラブロッグにぶつかりそうになりました(ゼログラビティより)。
まぁそんなハードルがそびえ立った中で観た映画、ということで、もちろん凄い意外!とか面白い!とかにはなりにくいですよね。
画面から貞子が出て来ない限りね。
でね、結果、貞子は出て来なかったです。
なんというか、どうなのこのストーリー?って感じで完全に駄作です。
まず、『チャイナタウン』っていうタイトルがよくない。
<チャイナタウン>ってやたらセリフで言うんですけど、「チャイ」って響きをただ言ってみたいだけなんだと思います。
ごめんちゃいとか、チャイってつい言ってみたくなるですね。
で、そこにチャイだけじゃ意味が分からないから、タウンをつけましたみたいな。
そんな安直なタイトルはどうなんだろうと。
僕だったら、「ジャックニコルソンの鼻」
というタイトルにしますね。
なぜかというと、ジャックニコルソンが扮する探偵ギテスは、黒幕の手下に事件から手を引けと脅されて、小鼻をナイフで切られてるんです。
そのせいで、開始42分ごろから、1時間22分頃まで主役である彼の鼻はずっと包帯でテーピングされているんです。
つまり、トータル2時間少しの映画の中で、40分もの間、彼の鼻は隠れているんです。
そうなると、もう映画は逆に鼻の印象しかありません。
黒幕は誰なのだろう?よりも、この鼻はいつ治るのだろう?という感心の方が勝ってしまい、鼻の絆創膏が取れてから終わりまではずっと蛇足なんです。
鼻なんてほとんど物語には関係ないのに、鼻の事ばかり気になってしまう。
脅しで鼻をナイフで切る必要なんて、まったくないのです。
もっと見えない、お腹とかを数発パンチしておけばよろしい。
なのに、なぜ鼻なのか??
作り手の立場になれば、その答えが見えてきます。
逆に考えるんです。
鼻を隠すために、手下に鼻を切られるシーンを追加したとね。
ではなぜ鼻を隠さなければならなかったのか?
おそらくこういうことでしょう。
ジャックニコルソンのスケージュールが合わず、公開までにシーンを撮りきれないという問題が浮上した。
どうやって、映画を完成させるか悩んでいるときに、たまたまスタッフか誰かの知り合いで、ジャックニコルソンに酷似している男がいることがわかり、彼に代役を頼んだ。
ところがどっこい、鼻だけが、ニコルソンと違う。
ここでポランスキー監督の「鼻を隠せばよくない??」
という鶴の一声が現場を動かし、このような鼻を隠す内容になったんだと思います。
だから、物語に無理が生じるのは仕方ない。
ここからはただの憶測なんだけど、ここで急遽抜擢された鼻以外ニコルソンな男ってのは、加藤茶か、いっこく堂。
僕はそうにらんでいるんだけどどうだろう。
映画っていうのは、実は現場でコロコロ変わるし、実際のスケジュール通りにとれるなんて保証もない。
アクシデントに対しての監督のフレキシブルな対応によっては、設計予定図よりも、さらに凄い作品になる可能性もある。
ああ、あそこはたまたまなんだよ、偶然そうなったんだよ、別にねらってたわけじゃないんだ…。
っていう監督はとても多い。
けれども偶然によって生まれた必然に、批評家的見地から、意味深なサブタイトルでもって制作者の意図ではない奥深さを作品に付加する。
そういうことってよくあるもんだから、鼻が隠れてる意味も、きっとよく受け取ってくれるだろう、という作り手の甘えが見え隠れして、このような「鼻だけの印象」になってしまったんだろうと推測します。
まぁわからんこともないけどね。
あとね、映画の終わり方。
ヒロインが殺されちゃうんです。
いわゆるバッドエンドだとは思うんですけど、ジャックニコルソンがバカすぎて招いた結果とも言えるんだよね。
ニコルソンが、黒幕をつきつめるシーンがあるんだけれど、丸腰で証拠の眼鏡だけもって、黒幕を現場によびつけるの。
え?いやいや。え??
で、結局証拠品の眼鏡も拳銃つきつけられて、没収されてんの。
え?いや、え?バカなの??
<マサラタウンに さよならバイバイ 俺はこいつと旅にでる ピカチュ〜>
って、なんだよ。バカの歌なの?これ以上のバカはないわ!!
って思ってたけど、それを超えたバカさだね。
黒幕をコチラに呼びつけたんだからさ、ホームアローンのケビン見習って、もしものために仕掛けでも作っておくとか、警察を呼んでおくとか、そういうことをなんでやらないの?
普通に考えて行動していれば、もしかしたららハッピーエンドになったかもしれないのに、バッドエンドにしたいもんだから、変に逆算してそういう不自然さを起こしている。
結局、こいつはね、自分がよかれと思って行動した事で、愛する者を失うわけです。
昔に女を失ったトラウマがあって、刑事を辞めて探偵になったのに、再び映画の終わりで、同じ結末を導いてしまった。
で、最後に「なまけ者の町だ」
って呆然と言うんだけど、お前は「愚か者」だろっつーの。
まぁ、きっと今の時代にこれが作られるとしたら、最後にはそのトラウマをしっかり克服するような、わかりやすい、くそな回収で終わるんだろうけどさ。
「ここはチャイナタウンだ」
なんて言いながら、悲愴感漂って終わるってことはないんじゃないかな。
まぁよくよく考えてみると、なかなかしぶい終わり方で、気に入ってる自分がいるな。
あれ、良い映画かも。。。。
ということで、点数は95点。
スタッフの皆さん、お疲れさまです。