さておかれる冗談

脚本家でイラストレーターのシーズン野田が綴る「活字ラジオ」。たまに映画を酷評し気を紛らわす悪趣味を披露してます。http://nigaoolong.com/index.html

ズー消灯時間 「日本総ゴリラ化」

一言でいうと、動物は馬鹿である。

 

無駄にウロウロしたり、気が狂ったように叫んだり、自分のシッポをおいかけたり、クラゲとビニールを間違えたり。

これが人間だったらと思うとぞっとするばかりなのだが、これほど野暮な仮定もない。

 

動物は、人間ではないのだ。

 

けれどもそう話は単純ではない。

我々が動物に愛おしさを感じる時を思い出して欲しい。

 

お手をするお利口なお犬さん。

食べ物をとり合う、チンパンジーさん。

優しい瞳で、ちらっとコチラを見やる、ゾウさん。

 

その中にちらっと垣間見える、人間らしさに、私たちはきゅんとさせられているのではないだろうか。

 

そんな事もあってか、私は動物に人間性を見いだしている以上、動物もまた批評の対象と捉えなければならないと思い至ったのである。

人間にもいい人と悪い人がいるのと動揺、動物にもいい動物と悪い動物がいるのだ。

 

ということで今回取り上げるのはゴリラ

 

 

私が「動物」と聞いて真っ先に思い出すのが、ゴリラ達だ。

街中で「どどど、動物だ!」という叫び声を聞いて振り向いた先には、必ずゴリラが仲間になりたそうにコチラを見ているのである。

それが何故なのか定かではないのだが、彼ら、ゴリラらの得体の知れなさ、馬鹿さに起因しているかもしれない。

なんというか、ゴリラらの中には、人間性を見いだしやすい。

だからか、霊長類で知能も高いと言われていても、結局その他の動物よりも、我々人間とつい比べてしまうから、より馬鹿に感じるである。

だいたい学名が馬鹿である。ゴリラ・ゴリラというらしい。

完全に適当だ。

これは名付けた奴がふざけているパターンだが、別にこいつらにはたいそうな学名なんてつけなくてもいいだろうと、思い至る気持ちも分かる。

いじめる奴も悪いが、いじめられてる奴にも問題がある理論だ。

 

何が問題か。

 

まず、ゴリラはウンコを投げる。

いきなり学名も適当でいいやと思わせる要素だが、いや、投げる事が問題なのではない。知的生命体である我ら人間でさえ、隣人問題等で威嚇としてウンコを投げ入れるという事件をニュースで度々目にした事があるからだ。

つまりウンコを投げるということは、本来動物に備わった威嚇行為であるのだ。

 

問題はそこではない。

 

ゴリラはウンコを投げる時、素手でウンコを触るのだ。

その事実が実にふざけているのである。

 

どんなに気が狂った人間でも、ウンコを素手で掴むようなことはない。ウンコ賛美者は話が別だが、ゴリラはウンコを威嚇として投げるわけであり、あくまでも汚いモノとしての認識があっての行動なのだ。

なのに、素手で触る。まったくもって不可解な生き物である。

それと、ゴリラはあんな身なりをしていながら、気が小さく繊細だという点にも注目したい。何か行動を起こしたと思えば、すぐに逃げるゴリラの姿はすぐに脳裏で再生可能だ。それはどこか人間の子供に似ている。ピンポンダッシュや、最後に叩いた人が勝ちっぽいという暗黙のルールが形成された子供特有の喧嘩でよく見られる、「叩いた瞬間に、逃げる」といったその姿はそう、ウンコを投げた瞬間に逃げるゴリラと酷似している。

ゴリラに抱える一種の違和感と馬鹿さは、おそらく、図体だけは大人なのに、やっていることがまるで子供だからなのかもしれない。

 

これは近年の、大人の幼児化にも通じるのではないか。

 

歳を重ねるということが、負の意味合いでしか語られない世の中で、いつまでも若くいたい、子供でいたいと潜在的に思うのは仕方のないのだが、言い方をかえればゴリラでいたい、ウホウホとドラミングしていたい、ということに他ならないのだ。

確かに、巷での会話を聞いていると、

「○○ちゃん、結婚したらしいよ」「うほ!」

「明日雨らしいよ」「え、うほ!」

「たこ焼きって、ほとんど小麦焼きだよな」「うほ!」

と言う具合に、いい大人のくせして何にでも「うほ」しか言えない奴がやたらと多すぎる。

 

まともな返しができないゴリラ化がすでに始まっているのだ。

 

 

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