【ドラマ批評】今期ドラマの『下克上受験』と『カルテット』に見る、保守とリベラルの明日
どうもです。
人生、山あり谷ありモハメドアリと言いますが、僕に言わせたら「ルパンザサード!ありっ?」って感じで、ずっこけてばっかりの今日この頃です。
このブログって、もし自分がラジオのパーソナリティだったら・・・っていうのの「活字版」なんですね。
高校時代はラジオっこで、いつかラジオのパーソナリティになれたらいいなぁ、なんて思っていたのが、こうしてなれずに、ブログという手段で雑談をする。
そういうスタンスです。
「シーズン野田の活字ラジオ」
と言っても過言ではありません。
ラジオのよさってのは、話す事が決まってない感じなのではないかと。
その責任のなさっていうか、しゃべりながら、言葉を見つけながら、思考を辿っていく適当さが心地いいんです。
心地委員会に入ったような・・・みたいな適当な言葉を投げかけられるのがラジオのよさっていうかね。
このブログも書く事が決まっていて書いているわけではありません。
ただ、文字を綴るという”行為”で思考を整理しているんだと思います。
だから、書きながら自分を発見することが多々あって、玉金の裏のホクロもこの流れで発見しました。
自分に言葉を投げかける作業なんです。
自己対話。
それをお見せするのもどうかと思って、社会的に話題になったトピックを無理やり導入にしたりするわけです。
で、そこ導入に選んだトピックが、タイトルにあるように「今期のドラマ」についてです。
かなり久々にドラマを見てます。
最近ドラマって本当に見た記憶がないなぁ。。。
それこそ織田裕二主演「お金がない」以来です。
織田裕二が貧乏生活してる話なのですが「お前金持ちだろうが」と、子供ながらに冷めた目で見ていた記憶が昨日のようです。
テレビもねぇ、電話もねぇような、回覧板が情報源みたないな生活を何年も送っていたので、ドラマに触れることなんて全くなかったのです。
しかし、今はあろうことか久々にテレビのある環境に身を置いており、本当になにげなく、なんの前情報もなく、「テレビって四角いなー」と思いながら画面を眺めていたら突然始まったんです。
今の番組って突然始まるよね。
その名も「カルテット」。
なんか写真が違うような。。。
あ、すいません。これですね。
・・・・・なんか違うんだよな。
いいのがないので、自分で描きました。
松本幸四郎の娘や、松田優作の息子、あとよくわからない天才役者が2人の計4人がメインで音楽家として役柄をもらって成立しているドラマで、坂本裕二先生が脚本を書きまくっているようです。
演技は達者な人たちだけれど、弦楽器のアテぶり演技が下手くそな気もしないでもないそんなドラマです。
今のとこ5話までやってますけども、このドラマ面白いです。
まぁちょっと前にも書いたけれどね。
でね、最新話が見ててちょっと辛かったわけです。
いい歳こいて夢を追うことの辛さや惨めさみたいなものが滲み出てて、やりたいことと、やりたくないけどやるべきこととの間で葛藤している登場人物たちを見て、好きなことで食べるってどういうことなんだろう?って改めて思ったというかね。
音楽家が「アテフリ」をよしとするか否かって葛藤なんだけれど(ここまでわかりやすい葛藤もないよね)メンバー3人が「やらなくていいよこんなこと」
って判断する中で、松本幸四郎の娘だけが
「やりましょう!これが私たちの実力なんです!」
っていう流れがあって、結局やるの。
葛藤の末正論に負ける物わかりのよさがまた、こじらせた人たちって感じなわけですが、そもそも夢を追うってことはやりたいことで食っていきたいっていう理論であって、自由への渇望ですよね。
しかし、社会から見たら<ゴミ屑>でしかないわけです。
リベラルが生んだ廃棄物たちです。
世に出た1流の創作者ってのは基本的にはそういったリベラルから保守に絡め取られた人たちで、未だリベラルであると思い込んだまま作品を作るので「あなたはあなた。好きに生きろ」と宣う作品が実に多い。
がむしゃらに働け!ってドラマ作っても誰も見ないしね。
で、好きに生きてる人間は、好きで生きてるかどうかで悩まないの。
別にそもそも好きに生きてるから。
夢を追う人間てのは、好きで生きることに悩む人たちでものすごく実は不自由。
あくまでも保守的な世界でどう生きるかを模索する人達であって、ただのエリート意識じゃないかと思うわけ。
「これは自分たちのやることじゃない!」
って態度は、ものすごく不自由じゃない?
なんでもやります!ってのが自由だよ。
辞めるのも自由だけれどそこに葛藤が生まれるなら、めんどくさいだけ。
で、何に悩んでいるのかっていうとくどいけれど<保守>か<リベラル>かで悩んでると。
ちなみに超ざっくり
保守・・・役に立つ人たち
リベラル・・・役に立たない人たち
ってことね。
繰り返すけど、1流と言われる売れてる人たちは<役に立っている人たち>なわけで、リベラルを気取った保守的な人間。
ミイラ取りがミイラになった人たち。
その反面、売れてない売れたい3流の人たちは反体制をしながら体制側に属せないことをフィクションの嘘に惑わされ「葛藤もまたよし」とペンディングしている状態の人たちで、ここにいる人間は社会から見たら非生産的なタマッカスでしかないわけだ。
この自己矛盾を抱えた人たちをこのドラマは4流と定義している。
今までのフィクションがその葛藤を「よし」とする中で、それは「クズの4流がすることだ」と言い放った。
だから、この回を見ていて夢を追う人たちは安易に「これでいいんだ」って思えないんじゃないかな。
だからこそ深く共感するわけ。
自分も抱えるクズさに。
結局夢を追うというテンプレートは旧世代リベラルが凡人に”あなたも特別になれる”という幻想をもたらした、廃人生産装置だったんだなぁ、、、って。
でね、そのヤーなアテフリの仕事がなんとか終わった後の帰り道、腹いせのようにみんなで路上演奏やるわけだよ。
楽しそうに。これが俺たちのやりたい音楽だ!!と言わんばかりに。
人も集まってきてね。
そこで少し見てる方も救われる気持ちになるんだけれど、実際は路上で何かやってりゃ誰か集まってくるだろうぐらいなことでしかないからね。誰でもいいの。けどそれでいいの。
それが楽しければそれでいいじゃない、別に。
じゃないなら、アテフリでも世間様のお役に立っている方がやるべき仕事であり、肯定すべき仕事なんだよ。それもそれでよしって。
30代の夢追いは男をくすますだけだって言ってたけれど、世間の声を痛いほどいいセリフで投げかけられるので、実はあまり夢がないドラマ。
で、で、で、もう一つ引き合いに「下克上受験」というドラマのがあって、
中学受験に向けて親父が子供を猛特訓するってドラマなんだけれど、学歴こそ全てで、大学出ればどうにかなるぞ!っていう理論がどうも古臭いわけ。
今時そういう受験感覚ってどうなんだろうって。
「もっと自由でいいんじゃないの?」って。
親子愛にもってくからか、決して嫌な風に受験を描いているわけじゃなかったけれど、反射的に「こんな時代錯誤な親父やだな」って思うわけだよ。
全話見てるわけじゃないからどのように帰着するかわからんけれど、見てる側がより自由を求める内容になっているわけ。
カルテットにある、共感しながら、それじゃだめだろ
に対し、こちらは、懐疑しながら、それじゃだめだろ
になる。
同じ<それじゃだめだろ>なんだけれど、そこに至るまでのプロセスが違う。
前者は自分に。後者は社会に向けられる。
で、ここが重要で、リベラル的な思想を広めるのなら、「下克上受験」で、保守的な物事を描くのなら実は夢想家を描く「カルテット」なんだということ。
「下克上受験」を見てると、頑張って好きなこと見つけて夢を追う方がいいと思うけどなぁ。。。
って思うので、実は切実さはあまりない。
より、夢を追う自分を肯定してもいい気がするのだ。
カルテットは逆だ。
もうやめた方がいいよな。
って思う。
テーマに対して反対に位置する題材を使用することが効果的なのかもしれないね。。。。
あれ、何が言いたかったのかわからなくなりましたが、ここまで適当に文章を書き殴れるのも才能ですよね?
俺にもドラマを書かせてください。
ということナリ。