【続報】東京オリンピックのエンブレム差しとめ問題の波
どうも。
最近は家に引きこもり、ろくに外にも出ないものだから分福茶釜のようにどんどん太って、このまま順調に行けば、「世界まる見え」で見たようなクレーンを使わないと家から出られない百貫デブになれるかもしれません。
あの光景は実に羨ましかったのを記憶しています。いいよなぁ、デブって。
そんな中、とあるイベントのロゴ制作を頼まれました。
正直、自分はデザイナーではありません。
しかし今や、ただの役者が声優を兼業し、ゲイがテレビで偉そうに語り、羽賀研二がジュエリーデザイナーを名乗る時代です。かつて、馬なのか人なのか議論されるうちに「ヘラクレス」と名付けられ、なるようになった事案もあります。デザイナーでも、ましてやデザイナーを目指すわけでもない自分が、ロゴマークの一つや二つは作ってもバチはあたらないでしょう。
それに、ロゴ制作なら家でゴロゴロしながらでも出来ます。クレーン脱出計画の妨げにもなりません。
一応、ロゴ神様へのお祈りをし、ありがたく引き受けることにしました。
まず、イベントのコンセプトやイメージを聞き出し、方向性の違うもの複数提案しました。
ここからクライアントの要望に沿う形で少しずつ修正し、運が良ければそのやりとりが少なく済み、運が悪ければ延々と細かい潜在的な微調整を繰り返していくことになります。
基本、運は悪い方です。一発で終わることはありませんし、今回はタイトなスケジュールだったこともあり、あくまで方向性の提示としてロゴを制作したので、やりとりが発生する前提です。
数日後、クライアントとの間に入ってる方から、一本の電話がかかってきました。
その内容は衝撃的なものでした。
「う〜結論から言うと、ダメになった。先方が、提出したロゴの中に”パクリ”があるって言うんだよね・・・」
「・・・ぺ、ペクリ?」
「パクリね。パ!」
どうやら複数案提出した中の一つに、とあるロゴと酷似しているものがあったようです。
もちろんパクった覚えはありませんし、納得いくはずもありません。しかし、広義の意味において、作品は全てパクリなのかもしれない、ともいえます。必ずなにかの影響が、それが例え微粒子サイズだとしても作品に反映されているからです。それをパクリと呼べばある人から見たらパクリになってしまう可能性は否定できません。
こうやって物事を複雑化して捉えるのは自分の悪いところではあるものの、もしかしたら何かに似ているかもしれない可能性を無視してしまったその一点において、自分にも確実に非があります。
若い頃は、よく藤原竜也に似ているだなんてことを言われた自分でさえ、
僕はキラじゃない!!!パクってない!!
と、自信を持っては言えませんでした。
だから、電話越しに「パクったんですかねぇ・・・」と他人事のような発言していました。
自分はパクっていない。少なくとも自覚的にはパクってない。しかし、先方は、なんらかの理由でパクっていると確信している。もしくは、パクっているかもしれない少しの可能性(蓋然性?)が、パクってないだろうという大まかな目算に負けてしまっている。
なんにせよ無職の僕の、大切な仕事がまるまるなくなりました。
また一つ人生に喪失感が増えました。
ロゴ神様にわざわざ祈祷しに行ったにもかかわらず、この有様です(ロゴ神様って何?)
前言撤回。。。
◆どうしてここまでパクリに敏感なのだろうか??
不思議じゃありませんか?
もし、たった一つのロゴが似ているだけなら、他の候補のを選べばいいだけの話です。
複数案提出しているわけで、あくまでもここからブラッシュアップしていこうという意思は伝えてありました。
たった一つだけ、何かに似ているロゴがあっただけなんです。
勘のいいあなたならおわかりですよね?
実はこれ、全て「東京オリンピックのエンブレム差しとめ問題」せいなのです!!
ここにきて、自分もこの騒動に巻き込まれると思いもしませんでした。
以前、この騒動を当ブログでも書いたことがありました。
もうみんな忘れてしまったかもしれません。
東京五輪のロゴがパクリであると、とあるベルギーのデザイナーから告発された騒動です。結局これにより、決まっていた五輪のロゴは破棄され、新しいものに取替えられてしまいました。
連日マスコミは、佐村河内、小保方に続く格好のネタとして、この五輪のロゴを作った佐野研二郎氏をパクリのパクさんとして、いじりたおしました。
その1年前、ジブリのパクさん(高畑勲)の『かぐや姫の物語』をスルーしてたにも関わらずです(スルーしてないか)。
それ以来どうやら企業も敏感になり、採用する側が「パクリかどうかを調べる機関」を設けているようなのです。
そしてその機関によって、今回の仕事はなくなりました。
とんだとばっちりです。
そして思いました。
佐野さんはパクってなどいない!とね。
まぁ真実はわからないけれど、「パクリかもしれないから」というなんとなくの疑惑で断罪するのは、推定無罪の基本原則に反する愚行じゃないか。
そもそもなんでパクったらダメなのか、パクリとは一体なんなのか、企業の側にしっかりとした考えやガイドラインがあるとは思えません。
こういった場合、泣き寝入りするのはもちろんクリエイターで、思いついたアイデアを一度は検索してみることが必須であるということだとは思うけれど、それだって限界あるよ。
佐野さんレベルでパクリだなんだ言われるわけだから、クリエイターってのは基本的に信頼されていない、ということだ。
最終的に騒動を沈静化するために優先されたのは、クリエイターの「やってません」という信念の裏打ちじゃなく、「やったやった」というなんとなくの総意だった。
あそこでもし、佐野さんのエンブレムを採用していたら、ここまで企業が敏感にならずに済んだわけだし作り手も窮屈にならなかった。
コストもかからなかったと思います。
というか「ベルギー劇場が文句言ってる?ベルギー?どこそれ?ベルギーって劇場あるんだ。ワッフルしかないと思ってた。ふーーーーーーん、しらね」って相手にしなきゃいいんだよね。
相手にしなきゃいいということがなかなかできない。
このような対応のまずさから、なんとなく似ているってだけで「盗用」扱いされる風潮を生んでしまったわけだ。
そして、まるでパクったと疑われている人間が人間的に劣っているかのように扱われるようになってしまった。
このことが一番罪深い。
今回の自分に依頼された「ロゴ制作」も、後で問題が起こると面倒であり、パクるような疑いをかけられる人間は、人間的に劣勢で、そもそも一緒に仕事をすることが汚点であると判断され白紙になったのです。
クソ人間ではあることは認めるが、パクったかパクってないかは人間性とは別の話です。
この世にどんだけの歯医者とコンビニとロゴマークがあると思ってるんだ?
たまたま似てしまうことの方が、盗用して似ることよりも多いんじゃないのか。たまたま人格的におかしいと思われてはたまったものではありません。
まぁ、クソ人間であることは認めます。
ちなみにこのロゴマークに似てたらしい。
せーの!
無知な自分を呪うばかりだ。
ボツロゴは出せないので、似てる度合いを一応記しておきます。
こんくらいかなぁ。
◆余談ですが・・・
ちなみに数多くある盗作騒動の中で個人的に一番印象に残っているのが、2006年に、和田義彦という画家が、アルベルト・スギというイタリアン画家の絵をパクりまくってた事件です。
左が和田氏で、右がスギ氏の作品なのですが、もはや間違い探しレベルで似ています。
ちょっとした濃淡まで見事に類似しています。
この和田氏の凄いところは、集中的にスギ氏だけをパクりまくっていることです。
そのどれもがとてつもなく似ており、おスギ氏に似ていることから画壇のピーコと呼ばれているとかいないとか。
本人は盗んでない。許可をもらっていると言っていたらしいですが、そもそも許可をもらっている意味もよくわかりません。
モナリザにヒゲをつけたマルセル・デュシャンのようにあえて一緒の構図を拝借したハイコンセプトな作品ならまだわかるのですが、ピーコは一体どうしたかったのでしょうか。
けどこれも本人がパクっていないというなら、僕はそれを全面的に信じます。
この大胆かつ華麗な似具合は、少しでも盗用しているという邪な気持ちがあったらできないはずなので。
何かしら、そうせずには言われない彼の芸術的内面があるのだと推測します。
まぁ・・・スギ氏は怒っていいんじゃないかな。