忖度して下さい。
あの演出家は怒る。という話を聞くとものすごい嫌な気分になります。
僕の周りには演劇人が数多く存在しており、そういう噂を耳にすることがあるのです。
実際に体験したことではないので本当かどうかはわかりかねるのですが、正直あまり怒らないでほしいです。
「怒るってことは感情の吐露だから、怒らない人より何を考えているのかがわかって逆にやりやすい」ってほざく人がたまにいますが、僕は全く思いません。
どんなに心の中で自分を馬鹿にしていようが、イラついていようが、ニコニコしてて欲しいです。表層的にニコニコ笑っていてくれればいいです。
宮崎駿がドキュメンタリーで怒っているのを見ましたが、怒ってまでアニメなんか作るなよって思うのです。良作が誕生してもです。
もし気に入らないのなら自分をもう使わないでくれればいいです。もっとああしろこうしろと怒りながら結局舞台に上げてくれるのなら、「気持ちよくやらせてくれよ」と思います。
怒って舞台から下されるのならまだいいです。
けどやっぱり、どうせ下ろすなら怒らないでくれよ、とも思います。
結局怒らないで欲しいのです。
僕はもう本当に怒られるとダメです。
怒鳴られたり、小突かれたりするだけで、思考が停止し、とにかく怒られないようにしようと目的が変わってしまいます。
いい舞台を作るためにそこに存在しているわけですよね?
そうじゃなく、怒られないように日々が過ぎるのをただ待つばかりになってしまいます。
僕はよく怒られます。 これまでいろんな怒られ方をしてきました。もちろん全部自分に非のあることばかりです。
ですのでなるべく怒られても顔に出さないようにしてきました。いわばポーカーフェイスというやつです。なんら気にしてないという余所行きの顔にするのです。嫌な感情を顔に出すと、また怒られかねないし、周囲にも気を使わせてしまうからです。
これには訓練が必要ですが、基本的には以下のような考え方がベースにあります。
例えば、蜷川幸雄は灰皿を投げていました。
普通なら「怒るから灰皿を投げる」と考えます。
しかし自分は違います。
「灰皿を投げるために怒る」と考えるのです。
蜷川幸雄は灰皿を投げるのがもともと好きで、その行動を肯定するためにさも怒ったから投げているように見せている、と。
こう考えているうちに、怒られても顔に出なくなりました。
ただこれがまた誤解を生み始めました。周囲から「ハートが強い」と勘違いされるのです。「ハートが強いこの人にならある程度怒ってもいいだろう」とさらに周囲を怒らせる悪循環に陥りました。誤算です。
目先の「怒られ」が嫌なせいで、余計に「怒られる」人生に自分で仕立ててしまったのです。
自分は、本来なら褒められて伸びるタイプです。
1浪の時、美術予備校の講師によく怒られてました。
講師の期待だったと思うのですが、そのせいで筆が持てなくなったのです。
ただ、カンバスに向かってなにもせず、時間が過ぎるのを待つばかり。
しかし2浪目で予備校も科も変え、優しい講師のところに行ったとき、ぐんぐんと表現力が上がりました。
1浪目の反動だったのかもしれませんが、身をもって褒められて伸びるタイプだと実感したのです。
萎縮するとなにもいいことなんてありません。
ですからあの演出家は怖いとかを噂レベルでも耳にするだけで「演劇」とか「映画」とかの全体に対して、とても憂いを抱くのです。
「セッション」という映画も端的に言うと「怒られ」がテーマになっていました。
「怒られてやめる奴は、最初からやめるやつだ」という名言もありましたが、僕は違うと思っています。
優しくすればもっと伸びるよって話なのです。
優しくして表現がつまらなくなるならその程度のやつなのです。
優しくしまくればいい。
僕はそう思っています。
言いたいことがあるなら、優しく、比喩的に言ってあげてください。
夏目漱石がアイラブユーを「月が綺麗ですね」に置き換えたという逸話がありますが、
そういうことです。怒ってどうにか相手を支配するなどというのは、考えることの放棄です。
さて、宣伝。
「街角のクリエイティブ」というサイトにライターとして参加してます。
基本的には映画のコラムです。
第1回目は「テラーオブハウス」について記事を書きました。
よろしければ飛んでみてください。
よってブログは適当になっていきます。
怒らないでください。