子供を怒ること、叱ること、殴ることとは。
この夏、子供達のミュージカルに関わりました。
マジでうるさくて、マジで生意気な子供達をまとめあげて一つの舞台を作るというのは並大抵のことではありません。
しかも子供達と創作しながらという、とんでもないオプション付きです。
自分は演出と脚本で関わったのですが、別に演出家とか、脚本家とか、ましてや先生とか、そういう肩書きで僕のことを子供達は見ていません。
自己紹介で「ノコノコさんと呼んでください」と言ってしまっ自分がいけないのですが、ノコノコ以下でもノコノコ以上でもない、絶対的なノコノコとしてしか見られてはいませんでした。
「ノコノコ!」
と呼び捨てにされれば、
「ノコノコさんまでが名前だよ」
と反論するのが精一杯です。
「さん」は敬称ではなく名前の一部であるということにして無理やりさん付けをさせるように仕組んではいたのです。しかし、そうなると「ノコノコさん」とよばれてもただの呼び捨てになるというジレンマが発生するのですが、背に腹はかえられません。
響きとして「さん」が付いていればいいのです。
とにかくなめられていました。先生の中でもダントツになめられていました。
「ノコノコに何ができんだよ?」と、ノコノコと生きてしまっていることがバレてしまっているのです。
怒るべきだといういう人もいるでしょう。
相手がどんなクソな大人でも、子供が大人を馬鹿にするのはいけないと。
しかし、果たして本当にそうなのでしょうか。
大人が子供にそういう文脈で「逆らうな」と命令したり、叱ったりすることを「しつけ」と名付けて、思い通りに行くように統制をとることは果たしていいのかと、ずっと思いながら稽古をしていました。それは敗北なのではないかと。
こうして、本番まで僕はただの一度も子供達を叱ったり、怒ったりすることはありませんでした。
大暴れしてまるで稽古にならないときもただ静観していました。鳥瞰していたというか、そこに自分はいませんでした。観察者として、そのこと自体を生かす術を考えていたのだと思います。元に戻そうとしたり、威嚇して正したり、そういうことではなく「対話」でもって、子供達と折り合いをつけようとしていたのかもしれません。
そもそも自分が、人を叱ったり怒ったりするような資格のある人間ではないというのも大きな理由の一つです。少なくとも自分は、何もできてない、やれてない、ボラギノールも自分入れらないような人間なのです。ちびっ子達となにもかわりません。いや社会的にはそれ以下の人間です。
教育とは、自分を棚に上げることだ。
と誰かが言ってたわけではいませんが、そこまで大きな棚は持ち合わせていません。もっともらしいことを言えば言うほど、その自分の中の棚は抱えきれなくなり、崩壊してしまうでしょう。
子供になにか教えてやろう、なんてどうしても思えません。
お子様にはむしろ「教えてもらう立場」であるとすら言えます。
なんて情けない奴だとお思いの方もいることでしょう。わかります。子供に蹴られても、罵られてもただヘラヘラと笑っているだけなのですからね。しかしこんなクズテツみたいな自分も子供とやりあうときがあります。
それは作品作りを介したやりとりの時です。
「もっとこうした方がよりよくなる」という直接的な作品に対してのやりとりの時だけは、折れることはありません。ムキになったり、意地になったりすることもあります。それは怒るのでも叱るのでもなくもはや喧嘩です。子供と喧嘩する大人。そう文章にするとなんとも情けなさが漂うのですが、作品の前では国も性差も年齢差も関係ありません。他の先生には「教育としてやる部分も必要だ」と言われますが、関係ありません。教育とか知りません。最低限、投げかける言葉には気を使いながらも、自分の中に教育的指導というもっともらしいスローガンは1ミリもよぎることはありませんでした。
そもそも教育とは理念を超えるものであり、どんな環境でも子供にとっては(大人に取っても)常に何かを育む現場なのです。教育的考え方がないことがむしろ教育的であることも十分にありえます。「いやいや、そうは言ってもある程度信念とか狙いを持って子供に接するべきだ。結果はどうあれ」という人もいます。だったら言わせてもらいますが「狙いを持って教育することなんかどうでもいいという狙い」を持って自分は子供接しています。子供みたいなことを言っていますが、一つの作品を中心に、クズな大人も交えた中で作ることが、何事にも代えがたい経験であるともいえるのです。
だから自分は、教えるだけの教育者にはなることは絶対にできないです。あくまでも、作品をよくしていくプロジェクトとして、子供と接する。それ以上も以下もタコありません。そこに教育もクソも、大人も子供もありゃしない。
最近、ジャズトランペッターの日野さんが、子供をビンタしたことで炎上しておりましたが、あれも大人と子供というテンプレート的な考え方、いわゆる教育としての捉えると、問題がある行為だと思います。
でも、彼らがやっているのは芸術です。一つの作品を作り上げるために集ったチームなのです。日野さんも、ぶったたかれたドラマーのA君も、作品を良くすることに本気なのです。つまり大人も子供もお姉さんも、関係ありません。たとえ相手が強そうなプロレスラーでも、あっちが強そうなAV男優でも、日野さんはひっぱたいていたでしょう。作品のために。
確かに観測的に見たら「大人が子供に体罰を与え、統制をとろうとしている図」にしか見えないけれど、あれもまた作品を良くするための喧嘩なんじゃないかと思います。
学校で問題行動を起こした子供に体罰を与えているのではない。一つの作品を創作するにあたっての、個々のエネルギーの在り処に違いがあるってだけの話です。体罰とかわかりやすい言葉に置き換えるようなもんじゃない。
日野さんと、A君が普段からどのような関係を気づいていたのかは知らないし、どういう意図があるのかわからないけれど、芸術に対してはとやかく周りがいうことはありません。映画でもスタントマンが死んだりするじゃないか。もしA君が殴られて死んでもそれと同じことだ。死んだら死んだでそれはまた別の問題だ。
日野さんの事件に話が逸れてしまったが、ちなみにいろんな意見をネットとかワイドショーとかでも見てて、一番しっくりきたのがマツコデラックスさんの意見でした。気になったら勝手にググってください。
さて、もし自分が日野さんの立場で、暴走したドラマーを止めることになったら、殴ったりは絶対しません。
たぶん自分のおしりを出すと思います。実はこれ、なかなか効きます。泣き止まない姪っ子を泣きやますときも、パンツを下げておしりを見せると泣き止みます。眼前に現れる突然のおしりの威力は、いろんなもののパワーを吸い取るようです。
ぜひやってみてください。ちなみにミュージカルの稽古ではその切り札を使うことができませんでした。なぜかって?捕まるからだよ!!!子供らはみんな女の子。身内の姪っ子とわけが違う。