<誘>の扱い。
啓示をうける、ニコラスケイジ
という駄洒落を思いついて、
なぜか、野球場で啓示を受け小説を書き始めた村上春樹を思い出したシーズン野田です。
「やれやれ」がネタ化され、誰もが普通に使うようになり、
煽る場合の「やれっ!やれー!」も村上風味に誤用する人たちが巷で溢れる中、
もはや今や村上春樹を知らない人は、「誰も知らない」という意思を映画にしてまで表明した是枝監督くらいになりました。
村上春樹作品の主人公は巻き込まれ型で、とにかく自分では大した事はやってなくてもモテます。
とにかく誘う事より、誘われる事の方が多い境遇で、人を誘う事がないのです。
俺と一緒やがな!!!
まぁ、誘われる事も別にたいして多くないんだけど、それにも増して誘う事が少ない、逆ぽん引き。
親がぽん引きをやっており、それを反面教師に生きた結果、逆ぽん引きになったのかというほどの、奥手ぶりです。
今まで付き合ってきた彼女にですら、どこかに誘うなどということはほとんどありませんでした。
「私ばかり誘っている」
と言って、去って行った彼女の後ろ姿が今でも脳裏に焼き付いています。
常にいつも「誘われる立場」です。
歯磨き粉のCMの、汚れが落ちていくイメージCGで、必ず少し残るあのかわいそうな汚れの感じ、くらいしか誘いません。
だからって、人徳があるとかではなく、先ほどもいいましたが、全体の中で誘われる割合が圧倒的に多いというだけです。
黒人の中に、ギャル男がいると、まるで白人のように見えるあれです。
どうどうと誘える人を横目に生きてきました。
今後自分が「誘」の字を使う行為をするとするなら、「誘拐」ぐらいなのではないかと思い、先に自主をしようと警察署の前をウロウロしていたこともあります。
自分も、仲間を連れ歩く勇者のごとき<誘える人>たちの見よう見まねで誰かを誘ってみようと思うのですが、なかなかどうして、変な服を着せさせられているペッドの犬のような違和感が生じるのです。
揉み手をしながら「おともいたしやす、へへへ」と寝言を言っていた、という証言もある程に、落ちぶれた自分に人を誘う資格があるのだろうかと。
けれども、生きていれば<誰かを誘いたい>、というシチュエーションは必ずあるわけです。
ちょっとした昼下がりのティータイムを始め、明日の日本を憂うお酒の席や、一人じゃ心細い頭皮のチェックの付き添いなど、あげればキリがありません。
誘いたくないわけではないのです。
どうしても相手をおもんばかってしまうのです。
他所様の都合を、小生ごときの駄件に合わせていただく事への申し訳なさでいっぱいになるのです。
そして、もう一つ、人を誘えない決定的な理由があります。
断られたらどうしようという恐怖です。
というかこれしかありませんし、これほど恐ろしい事はありません。
断られた途端、傷つく自分をけっして見逃さない「アナザーマインド」が発動しするのです。
それには誰も逆らえません。
どんなに傷つていないフリをしていても、独自に培った追跡システムで、断られた時に傷付く自分を必ず見つけ出すのです。
「見つけたぞ!ははは、またいい具合に傷ついているな!もしお前が非売品のペコちゃんのビニール人形だったら、傷がついていなければ倍の値段で売れたのに!!鑑定甲斐のないやつめ!!」
と、すぐに見破って連行していきます。
同居人の角田なんかも、平気で僕の誘いを断ります。
「いいや」と言う投げやりな言葉にシャキシャキのキャベツを添えて、一蹴するのです。
そんなとき、ふたたび「アナザーマインド」が発動します。
「己の断りを何故か<とんかつ>に寄せ、キャベツを添える同居人も同居人だが、そのキャベツを食べて気を紛らわすお前もお前だ!クソださいやつめ!」
と罵るのです。
おそらく<誘う人>はこのような恐怖と戦い続けて、時には誘いを断られ傷つきながらも生き耐えてきたのでしょう。
そう思うと、頭が上がりません。
ですから、人の誘いはなるべく断らないようにしています。
意を決して誘ってくれている勇者様への敬意と畏怖の気持ちです。
けれども、まるで、ドラクエのモンスターが仲間になりたそうにこちらを見ているような目つきの女がいたら
「一発やろうか!」
と恥を忍んで誘うと思います。
その時ばかりは僕も勇者です。
女性に恥をかかす事だけは父の教えもあってか、どうしてもできないのです。
まぁ、いままでそんなことないんですけど。
父もどうやらなかったようですけど。
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