舟を編む シーズン野田
メラを唱える、米良
という駄洒落を思いつき、
容易に想像できてしまうシーズン野田です。
米良をいじるあたり、本当に俺って凡人だなぁとつくづく思います。
さて、今年は映画をたくさん観まくるプロジェクト
「ミマクロード・ヴァン・ダム」
を発案したからには、ほぼ日で映画をみなければなりません。
ほぼ日と言っても糸井重里は関係ないという件はもういいかな。
ということで今日は「舟を編む」を観賞しました。
何も知らずに借りてきたので、どんな毛糸の舟が出来上がるのかわくわくしていたのですが、開始10分で
「ありゃ…もしかして、これはただの比喩である可能性大だな」
と懐疑しつつも、いつ出るのかと、毛糸でよれよれだけど、くそデカイ現代アートの様な、クリストもびっくりする舟はいつのでるのかと。
手芸クラブに通う主人公がライバルの主婦に
「私なんて舟を編めますから!!」
とはったりかましたことから、やむなく編んでいるうちに
「私もお手伝いするわ!」
とぞろぞろと大勢で編む事になった奇跡の舟はいつ出るかと。
そんな期待を完全にぬぐい去る事ができずにいたので、何事もなくエンドクレジットが流れ始めたときには、ガッカリしました。
サザエさんでおなじみ、
「フネです(声:麻生 美代子)」
の方のフネかも…ナミヘイがフネを編むという言い回しで妻を濁した、それはそれはいやらしい場面が出てくるのかも…
という期待はツタヤでパッケージを見た瞬間に打ち砕かれていたので、<せめて毛糸で編んでいて欲しい>という期待が勝手に膨らんでしまったのかもしれません。
とはいえとても良い映画だったと思いました。
この映画は、辞書を作る話の中に、いろんなドラマがあるよ〜みんな観てみて〜ほら〜めっちゃ時間かかるし、人生そのものだよ〜っていう、わかりやすくいうとそういう話です。
一冊の辞書を作るのに15年かかるんです。
これはもう、アートじゃないかと。
売れるとか、売れないとか、そういうことじゃなく、「残す」という使命に導かれた人たちが一体となって分厚い辞書を完成させようとする「意思」のありかが舟になり、
常に変化し、あるいは消失し、時に新たに生まれたりする恣意的な、あまりに渺々たる<言葉の大海原>を、航海するという実存的、あるいは観念的行為に意味を見いだすその様は、僕はアートだと思うんです。
何を言っているのかよくわからない人は、辞書を開いてほしいですが、
自分で何言ってるのかわからないから、俺は辞書をひらくよ。
ペラペラ。
紙の質感をどうするのか?と議論するシーンが僕は好きですね。
言葉に触れる、そんな感触や手触りを大事にするってところがとても童話的でやけにメルヘンチックに感じました。
へ〜辞書ってそうやって作るんだ
というトリビア的カタルシスを織り交ぜながら、わかりやすい人間模様でドラマが進むので、とても間口の広い、数ある辞書系エンターテインメントの中では最高峰じゃないかな。
「用例採集」という、言葉が出てくるのですが、これは、気になる言葉や言い回しをカードに書き込んでいく辞書作りにはかかせないやり方です。
日夜、カードを持って用例採集をする登場人物達をみて、身が引き締まります。
しかも、これって一般的にもけっこう使える言葉じゃないかと思うんです。
「お前まじものしらなすぎ!用例採集しろよ!」
とか、告白する時に
「君を用例採集してもいいかな?」
とか、死ぬ間際に
「もう、思い残す用例採集はない…」
とか、
とか、
「タラちゃんの用例採集」
とか、
「まま〜カツオお兄ちゃんが用例採集です〜」
とか、
「用例一ヶ月の花嫁」
とか、
「坂本一生こと、新用例採集」
とか
まぁほとんど悪ふざけですけど、
けっこう僕はこの言葉、気に入りました。
ただ、イメージシーンとかもうちょっと面白くできないもんかと思ったのも事実です。
もうすこしハッとするような、「今の悔しい」って思う様な演出を期待してしまう自分が野暮なのかもしれませんが、まぁ安定の山田洋次監督なのでそこは目をつむります。
……。
監督、石井裕也じゃないか!!!!
ギャフン。