犀の角のようにただ独り歩め
今週のお題「朝ごはん」
今日の朝ごはんは干し芋でした。
誰かが作った愛情ある朝ごはんを食べたい・・・と思う時もありましたが、そう思えば思うほど、孤独を感じるものでして、干し芋の殺伐具合が自分にはここちよかったりします。
ただ、中国産だったので、もう食べません。
「 犀の角のようにただ独り歩め。」
(『スッパニパータ』 )
という仏教の教えをご存知でしょうか?ちなみに犀(サイ)と読みます。
インドサイは群れではなく単独で行動します。つまり犀の角は孤独を意味するわけです。人間の悩みというのは、すべて対人関係の悩みです。悩んだら、そこから離れて1人になりなさい。さすれば道は開かれん。。。。という教えです。
なりなさいの”さい”もサイにかかっているとかいないとか。
本来孤独というのは、人間関係によってもたらされる感覚であり、1人ならそもそも孤独は存在しません。
「孤独がいやなら、1人になれ!」
と言うわけです。うーん、今の自分にはなんともぴったりの言葉。
繋がろうとするから孤独を感じると。
他にも
「キリンの首のようにただ長く待て」
とか、
「ゾウの鼻のようにただ器用にうねろ」
とか、
「ゴリラのドラミングのようにただ無駄に鳴らせ」
とか、
「コアラのマーチのようにただチョコをつめろ」
とか、
「パンダの貴重さのようにただうまく外交に使え」
とか、
「マントヒヒの顔面のようにただインパクトを与えろ」
とか、
「猫のようにニャー」
とか、
「ヘビのようにシャー」
とか色々ありますが、やっぱり
「 犀の角のようにただ独り歩め。」
が一番、思慮深いお言葉ですね。
さすがブッタです。
人間というのはつながらないと生きてはいけない存在です。誰かが作った家に住み、誰かがつくった野菜を食べ、誰かが作った便器でうんこをしている。
そのそも日常が誰かと繋がりまくっているのです。
ゆえに孤独とは常に隣り合わせなんですね。だから小さな孤独から逃れることってのは本質的には無理だとは思いますが、大きな孤独からはきっと逃れられるはずです。
そのために犀の角となり、ただ独り歩むしかありません。
ちなみに、犀の角は成分的には"毛"らしいですね。
だだそれだと
「犀の毛のようにただ独りなびけ」
となるので、意味が真逆になりますね。