『ニンテンドースイッチ』の新作ゲームが、狂気に満ち溢れてると話題になっているが、、これはただの奇行なのか?
どうも。
統合失調症の薬の副作用で認知症になってしまった叔母とただ今絶賛二人暮らしているシーズン野田です。
毎朝、
「おかーさーん?おかーさんどこ?」
と死んだはずの母親を探す叔母の声で起きるわけですが、認知症の症状なのか質問地獄を味わっています。
ここはどこなのか?俺はだれなのか?病院はいつで、歯医者はいつで、仕事はいつからいけばいいのか???と、クエッションマークの宝石箱や。
僕はこれを「叔母Q」と呼んでいます。
それに答える自分は「甥A」なわけですで、せっかく「A」がうまく絡めそうなので、ここは語呂よく「甥子甥夫A」としておきます。
「おいこおいおA」と呼んで下さい。
ちなみに、
「おかーさーん?おかーさんどこ?」に対して
「死んだでしょ」と言うと
「あ、そっか」だって。
めっちゃ素直!!
本当子供みたいですよ。
子供だと思って接すればまぁなんとかなるということに気がつきました。
ただ、可愛くない子供キツーーーーー。
育てたくなるように、赤ちゃんが可愛くできているという理由が大いに納得できる今日この頃です。
さて本題。
まずは、今「ヤバイ」と話題になっている赤ちゃん動画をご覧ください。
これ、任天堂がおかしくなったと揶揄されている動画なんです。
任天堂の新型ゲーム機「任天堂スイッチ」の特徴を生かしたゲームです。
ゲーム機を赤ん坊に見立てて、寝かしつけるというゲームなんだと思いますが・・・まぁ、たしかに奇行です。
たまたまこのゲームをやっているところを、回覧板を回しにきたお隣さんが庭から見かけてしまったら、たちまち噂が町中に広がるレベルです。
しかしながら、狂気に満ち溢れているゲームではあるものの、私はこれを、ただの気の迷いとは思えませんでした。
おそらくこれは、 任天堂による、皮肉と自己批評が入り混じったゲーム業界への風刺動画なのではないでしょうか。
あるいは「ゲームを評価してやろう」というスパルタなゲーマーが昨今溢れかえり、ちょっとしたことで低評価レビューを付け、作品をよくしていこうという姿勢がまるで見えないことへの嘆きを、子供ができない夫婦の嘆きに置きかけているゲームというか。
もっというなら、任天堂からゲーマーに対する<もっと一緒にゲームを育てて行こうぜ!>という比喩的なメッセージに思えてまりません。
それをこのような形のゲームに落とし込めるのは、常に業界のアンチテーゼとして君臨してきた任天堂だけです。
ちょっとした離れわざです。
ゲーム体験の進化をゲーム内だけで考えていては、このような発想は産まれないでしょう。
あくまでも批評的に、アンチテーゼを打ち出してきたからこそ、産み出せるクリエイティビティなのです。
アンチテーゼこそ任天堂のクリエイティブなのです!!
逆を言えば確固たる信念はありません。
いや”信念がないことが信念”であるというタモリ的スタンスです。
<みんながやればいいのにと、いうことをやらないからこそ存在する企業>だと、本人たちが自覚しているのです。
だからこそ、ゲーム機を赤ちゃんに見立てたゲームの企画が通るわけです。
<リアリズム=リアリティ>がグラフィックに反映されることが正義とする流れの中で、果たしてそれでいいのかと思考し、そして出した答えが<手触りの追求>だった。
任天堂64の時に振動パックをだし、ゲームキューブでゲーム機に取っ手をつけ、wiiでグラフィック戦争から下り直感的なリモコン操作を大ヒットさせ、wiiUで2画面を同時に使い生理的気持ち良さを追求した新規ipのスプラトゥーンを産み出すことができた。
任天堂は常にフレームの中と同時に、外も意識してきたのです。
そのような俯瞰した姿勢があるからこそ、ゲーム業界そのものを直接的に批評したゲームを作ることができるのだ!
と、思いませんか。
この、赤ちゃんをあやすゲームが本当に面白いのかはわかりません。
ただ、かつてここまでユーザーを含めたゲーム業界に対しての一つの解をだしたゲームはないのではないでしょうか。
任天堂という歴史あるゲーム屋さんだからこそ、批評として機能するのであり、新興メーカーがだしても「お前に言われたくないよ」で終わる代物です。
これは、面白いかどうかは別次元であり、出すことに意味がある、そんなゲームでだと思いました。
面白いかどうかは別次元ってのがいいよね。