今週のお題「布団派? ベッド派?」をメッタギリ!!
今週のお題「布団派? ベッド派?」
ベッド派か布団派か。
そんな議論を目の当たりにする度にいつも思う。
日本はなんて平和なんだろう、と。
世の中では、布団やベッドなどなく、地べたで横になる子供達がまだまだたくさんいると言うのに。
「ベッドじゃなきゃ寝れない事」や「布団じゃなきゃ寝れない事」などを主張する
人間は、どんなに眠くても、ベットや布団がなければ寝ないでいただきたい。
私たちは所詮「寝床派」ではないか。
「寝床」さえあればいいではないか。
ただ、なんとなく、流れで「ベッド」を使用しているから「我はベッド派なり」、
と自己認識をしているに過ぎず、そこには確固たる信念など皆無なのである。
それは思考など介在しない、ただのポジショニングトークにすぎない。
その他にもこの世の中には、
「パン派」と「ご飯派」や、「ブリーフ派」と「トランクス派」などといった、
こぶ平の正蔵襲名よりも下らない派閥争いで溢れている。
パンよりご飯が少し好きなだけで「パン派」になり、たまたまトランクスへの切り替えが遅れただけで「ブリーフ派」になってしまうという、恣意的な線引きに何の意味があるのというのか?
そこには「派閥」という、共同体的強度など、一切ないのだ。
なのに人間はいとも簡単にくだらない派閥構造をつくり、結局どちらでもいいのに、拘った振りをする。
そう、私はそのプライドのありそうもなさに、苛立つのだ。
本当に派閥的な争いがあるとしたならば、しっかりとどこかに集合して、今後勢力を拡大するためにしかるべき対策をとっていただきたい。
ただここで議論を変える意味でも、的を絞って、例えばホームレスがブルーシートの上でこの議論を繰り広げていたらどうだろう。
「おらぁ、例え家がなくたって、ベッドだけは手放せねんだ。ダンボールで寝るだなんてふざけた事考えられねーし、ましてや布団なんていう綿詰めただけの布袋で寝るだなんて、人間のやるこでねえやい」
と、野ざらしのベッドの上で持論を展開していたらと。
そうなると、一気にこの議論に何かしらの可能性を感じるのではないだろうか。
家がないという「限定された条件」の中だからこそ、寝床に拘る意味が生まれてはいまいか。
生きることとはなんなのか、この大きな宇宙の流れの中で我々が苦悶し続ける事の図式的意味合いがなんとなく紐解けそうですらある。
こぶ平の正蔵襲名ですら、神聖を帯び始める。
そうなのである。
この類いの派閥争いは、限定的に行われることでようやく、意味あるのものに変化し、自己に内在する未知なる自分を発見するきっかけとなるのだ。
例えば「ベッド派?それとも布団派?」という質問の頭に、「殴るなら」と付けて限定化させてみよう。
「殴るならベッド派?それとも布団派?」
そうするとば、様々な可能性を頭でイメージするはずだ。
ベッドだと重くて持てないから、布団を丸めた方がまだ殴りやすいだろう。ただ、威力としては大分弱まるから、持てる程度の代物だったら、ベッドに軍配があがるはずだ。ただし、水を含んだ布団はそうとう威力があるので捨てがたい、あれこれ。
考えれば考える程、ベッドなのか、布団なのか、わからなくなる。
「殴るならパン派?それともご飯派?」
なんとなく、食パン(一斤)や、フランスパンのバイアスがかかり、パンに軍配が上がりそうだが、ちょっと待って欲しい。
秋田名物のきりたんぽはどうだろう。
元はご飯であり、あつあつねちねちのきりたんぽで殴られたら、ひとたまりもなさそうだ。
と、このように、かなり込み入った所まで思考するはめになり、好き、嫌いをこえた批評性と客観性が議論に深みをもたらすのだ。
別に限定ワードは「殴る」だけではない。
<セックスで使用するなら>ベッド派?それとも布団派?…パン、オアご飯?
でも構わない。
ただこの場合のみ、ブリープ派とトランクス派の派閥争いは無意味化する。
なぜなら100%ブリーフ派に軍配が上がるからだ。
ということで、私はブリーフを使用し続ける。
ブリーフ派の諸君は、明朝、裏山の一本杉の下に集合していただきたい。
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