静岡の富士、石田徹也的不治の病
今週のお題「さむい」
先日予定していた、
にがウーロン静岡公演ヘルシー番外編「ミックスジュース」ですが、メンバーの体調不良により、延期になりました。
まずは、大変お忙しい合間を縫って予約をして下さった方々に、深くお詫びを申し上げます。
もちろん、暇過ぎてとにかくなんでもいいからと、予約をして下さった方々にも、謹んでお詫び申し上げます。
ちなみに、予約はおろか、このイベントすら知らない人々に関しては、この限りではありません。
とはいえ、やはり、お詫びを申し上げる事にします。
しかし、「お詫びを申し上げる」という表現を聞くたびに、なにか解せない自分がおります。
「鼻をほじりあげます」が、鼻をほじる前に言う言葉であるのと同じように、「お詫びを申し上げる」というのは、お詫びをする前の言葉であるわけで、謝罪の意味が含まれていないのではないか?という、個人的な疑問は、長くなるでこの場では割愛です。
すいませんでした。。。。
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さて、このようなさむい時期にイベントを打ち立てると、風邪をこじらせたり、インフルエンザになったりと、リスクも多く、体調管理は必須です。
今回初めて、延期と言う自体を招いてやってきたのは、「ああ、もう若くはないのだ」という残念なお知らせです。
「今日は残念なお知らせがある。君たちはもう若くはない」
と、まるで担任の先生に、大好きな友人が転校するという事実を突きつけられた時のようです。
「おい、どうしてだよ!なんで言ってくれなかったんだよ!俺たちはいつまでも若いって言ってたじゃないかよ!」
「しかたねーだろ。親の都合で急に若くない事が分かったんだから」
若干、大げさに言っておりますが、20代のあのノリでは済まされなくなったのです。
飲み過ぎても、食べ過ぎても1日眠ればころっと良くなるあの頃が懐かしいです。
不死身だと思っていたあの時が…。
そんなこんなで、突然のハプニングによる延期でもって、ちょっとした余暇が出来ました。
次の旅行のために生きているリア充風情とは距離をおいていたので、気分転換にちょっとした静岡巡りです。
どこに行こうか迷ったあげく、リアル充実らしく静岡美術館で催されてる「石田徹也展」へ。
仲間達と、
「石田」
「徹夜」
「なんですか〜」
と、石田徹也ゲームで盛り上がったのも、これまた記憶になつかしいです。
石田徹也と言えば、マグリット的不条理と日本的憂鬱のダブルパンチで気を滅入らせる作風でお馴染ではありますが、ちょうど我々の年齢の時に、踏切事故で死んでおります。
絵を見るからに自殺だろう、なんて思うわけですが、この年齢は体の老化とともに、精神的な部分が貧弱化し、巨大な世間に押しつぶされそうになる年齢だったりします。
自己と向き合う必要がある人種にとっては、時間の都合上、世間の声に耳を傾けてる暇などないのにもかかわらず、それはノイズとして体に蓄積されていきます。
二つとも放っておけない人間は、その狭間でもがきつづけ、やがて死を選ぶのです。
けっきょく自画像的(自画像ではなくみたいだが)な絵を描きまくると、世界がうちにこもり、広がりがなくなって行くのかもしれません。
その世界に限界を感じ、逃げ道がなくなり死を選ぶ。
石田の絵にある、ユーモアやアイデアや笑いがかろうじて社会に自分を繋いだ部分だったりするのかもしれませんが、笑いを武器にする人間は、ふざけていない自分を揶揄するところがあるわけです。
何を真面目に、やってるんだって。
けど、その自己分析が実は一番真面目であり、知らない間に自分を追いこんで行く。
葛藤の中に、日々を放り込む。
知らず知らずに。
やがて、徐々に作品からユーモアや笑いがなくなり、気だるさだけが残って行きます。
自分を揶揄するアイデア出しもめんどくさくなり、「ただかく」行為だけが形骸化し、亡霊のように制作をする。
みつめるのは、他者ではなく、自分。
社会と自己を並列に存在させることを、おそらく中学くらいからテーマに人間は生きるとし、その世の中的な(肉体的な)タイムリミットがだいたい30代くらいだったとしたら、石田徹也の自殺もその限りだったりするのもしれません。
お前は何を言ってるんだい?
おっと、ついつい、石田徹也に自己投影するという、中学生みたいなことをしてしまいましたが、僕には、つっこみの角田がいたのでした。
彼は言います。
「おい、野田。お前は何を真面目ぶっているんだい?俺のチンコはでかい。その事だけを考えな」
そうです。
男は、ちんこの話をしていればよろしい。
というように、またまた自分を揶揄することに終始します。
不治の病です。
この富士の山、いー、でしょ。
さすが静岡。
延期して本当に申し訳ない気持ちでいっぱいですが、この富士を見た途端、なぜか目的を達成した気分になりました。