酷評シネマ「チャールズ・スワン三世の頭の中」
映画バカ、と聞いて思い出すのが、コッポラ一族である。
コッポラの中でも、最強のコッポラは、フランシス・フォード・コッポラであろうか。
その娘は、ソフィア・コッポラと呼ばれ、息子は、ロマン・コッポラと名乗る。
コッポラ、コッポラ、とまったくうるさい、コッポラらである。
トロルやゴブリンの類いであるような、その響きの中に文化的な臭いがするのもまさに彼らが妖怪のくせに「映画」を監督しているからに他ならない。
親父も、娘も、息子も映画監督なのだ。
因みに母のコッポラも、映画監督であり、兄のコッポラも映画関係の仕事をしている。
おそらく、とある魔女に、一族ごと映画の呪いでもかけられたのだろう。
その魔法が解けるには、「ソフィアコッポラが名作を撮ること」、という土台無理な条件だったりするのだろうか。
彼女もあまりに現場が楽しいので、呪いが解けないようにと、あえて名作を撮らないのだ。
この、スタートとカットを繰り返す、生きる亡霊たちを題材に、アダムスファミリーの様な映画を撮った方がいいのではないかと思いながら、今回鑑賞した映画は
「チャールズ・スワン三世の頭の中」という、コッポラの中では、あまり質のいいコッポラとは言えない、ロマン・コッポラの作品である。
なんでこの映画を借りたのかというと、ツタヤのポップに「マルコビッチの穴」が好きな人におすすめ!と書いてあったからである。
「マルコ」というビッチな女と付き合った自分にとっては、「どんな穴かいな」と興味を持たねば、自我が崩壊すると言うもの。
ということで、借りて見たのだが
どこがマルコビッチなんじゃい!
どこの役者かもわからない、まるで老けたチャーリーシーンの様な俳優が、わけのわからないつまらない妄想しているだけなのである。
おいTUTAYA。貴様らは、いつから詐欺屋になったんだ?
線路に置き石ならぬ、置きTカードが脳裏をよぎったその時だった。
老けたチャーリーシーンが、出て行った彼女の家を覗き見ると、他の男といるのを目撃してしまう。
そんな主人公が、めそめそと彼女に思いを告げるシーンで、
「いつかどこかで君に出会ったときに、きっと平気になってしまっている自分がいる。その事を考えると、つらくてたまらない」
と告げた彼に、なんとも、共感してしまったのではないか!!
彼女に会えなくなるから寂しいのではない。
いつか平気になってしまう、歳を重ねた自分はそのことを知っている。
そんな未来に悲しみを覚えている。
だから、ずっと平気になりたくないという自分がいることへ絶望と、彼女を好きな自分を好きなだけだった、という彼女に対しての身勝手な申し訳なさが入り乱れ、
ああ、俺は泣いたさ。これでは、魔女の呪いが解けることを拒む、ソフィア・コッポラと同じじゃないか。
さて、不意打ちの名台詞に、思わずやられた自分だが、最後の最後でふたたび、不意打ちが訪れた。
主人公の老けたチャーリーシーンの似ていると思っていた役者はなんと、
本当に老けたチャーリーシーンだったのである!!
確かに、劇中で皆にチャーリーと言われていたが、そんなミスリードあり??
↑最後にお色気。主人公の妄想です。出てった彼女がこの中にいますが、この後、とんでもないことに。
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