日本映画の中で世界興行収入が、最も多い作品となった「君の名は。」は最終的にどう見るべきか。
基本的に、作品を見るときってさ、脚本がどうとか、演出がどうとか、役者がどうとかって見方は変だなって感じる。
演出はいいけど、脚本が微妙だとか、そういう見方されたらその作品はなんらかの欠陥がそこにあって、また見る方もそういう見方をすると本質的な作品の力を受け損ねる気がする。
作品は己の人生をかけ全体で捉えるべきじゃなかろうか。
作り手は、脚本を、演出を、役者を、照明を、音楽を、カメラワークを単体で見せたいわけではなく、その絡み合いを通した肉体と精神の呼応を召喚させたいのだ。
もちろん全体で捉えて、それを"感想"として口に出すときは、一つずつしか言えないから、
「ジャイアンが"そのまえに飯にしよう!"って言った後にみんなでこけるあの感じがサイコー!」
とか
「ブタゴリラって、いじめっこキャラだけど、八百屋の仕事手伝ってて、実は一番偉いよな」
とかみたいに、ピンポイントにならざるをえない。ピンポイント(ディテール)の積み重ねが映画だから、現象としては間違ってないんだけれど、もしその作品を語らざるを得ない時、細かく語ったその集積がまるで作品そのものであるような表現領域に達し、ときにはそれが対象の作品を凌駕するほどの力を内在させんばかりの願いや意志をしっかりと帯びさていようとする誠実な態度が、必要なのではないだろうか。
誰もが映画を語り、関係者を名乗る時代になった今、そのくらいの覚悟や責任を持った言葉を聞きたいと切に願う。
間違っても「自分が監督だったら」みたいな無邪気さで作品を愚弄するのはやめていただきたい。
あなたの"もし"など、すでに検証済みなのだから。
ということで、「君の名は。」をようやくみました。
チャゲとアスカの体が入れ替わって、シャブ打った記憶がないチャゲがアスカになってる時にちょうど警察がやってきて、思わず「シャブじゃなくてアンナカです」ってチャゲがアスカをかばう映画かと思いました。
「あれはおしっこではなく、お茶を入れました」って機転利かせたのも、入れ替わってるチャゲだった、という話かと思って期待してなかったのですが、全然違って面白かったよ。
ただ、なぜあの二人が入れ替わったのか、よくわからなかった。
俺が監督だったら、もともとツインボーカルのユニットだったとか、長い間一緒にアーティスト活動をしていて精神性が似ていたとか、シャブ中同士だったとか、ってしっかりとした理由を説明するがな。
まぁ、多分見過ごしてるのだろうね。
誰か教えてください。
ということで、読んでくれてありがとうです、らっしゃい。