【映画悲報】話題の映画『ラ・ラ・ランド』をぶった切り!!!ラブアゲインは果たしてあるのか!!?
『ラ・ラ・ランド』の由来って知ってます?
英語表記すると
"La La Land"
になります。
"La La Land" という表現の "La" の部分は、ロサンゼルス(Los Angeles)の略語が "LA(エル・エー)" であることに由来してるんだって。
つまり、ハリウッドの物語であると。
そして、現実離れした世界、おとぎの国の話である、
という意味が込められているようです。
誰もが憧れるハリウッドスター、映画の華々しい世界を、おとぎの国としているわけですね。
しかし、このタイトルを聞くと何故だか物足りない気持ちになりませんか?
どうしても『ラ』が一つ足りなく思えるのです。
おそらく日本人なら誰もがこの喪失感に見舞われるはずで、我々日本人が、このタイトルを聞いた時に真っ先に思い浮かぶのは、この男じゃないでしょうか?
『ラ・ラ・ラ・ラブソン』で引っ張りたダコになり、和製ウインナーミュージシャンです。
その印象があるからか『ラ・ラ・ランド』というタイトルを聞くと必ず「ラ」が一つ少ないと感じるのです。
まず、この映画に対しての違和感はここから始まりました。
『ラ・ラ・ランド』はアカデミー賞で何か受賞したのか、しそうなのかはしりませんが、この作品を撮ったデミアン・チャゼル監督は、なんと32歳という超若手!!
おいおい32歳って、ミスチルの桜井さんがHEROを作った年じゃないかよ。
って、ピンとこないね。完全に比較対象を間違えたね。
横に置くタバコの大きさ間違えたね。
自分と比べたくないんだもの。
とにかく、親戚の叔母さんが「若いのにすごいわね~、サインちょうだい」っていうレベルであることは間違いない。
ものすごい実績です。この監督の前作『セッション』もまた凄い作品だったから、もちろん今作もハードル爆上がりで映画館に行って見てきましたよ!!!
ハードル爆上がり!!!
テレビで評論家が絶賛してたし、もう、ハードル爆上がり!!
上がる上がる、面白いほどにハードルが。
さて、肝心の内容は、ハードルを上げすぎた感が多少ありましたが、「まぁまぁ良かったと」、、とメモには書いてありますね。
映画の引用が多々あるとのことで、その辺を知っていたらもっと楽しめたのかもしれません。
「雨に唄えば」くらいかなぁ、わかったの。映画詳しくないので許して下さい。
とりあえずいいとか悪いではなく思ったことを箇条書きに書いていきます。
ネタバレありです。
人生何が起こるかわからないんだから、映画くらいネタバレしてた方が安心じゃんとは思いつつ、先に進みましょう。
思ったことその1
大事な約束すっぽかしすぎじゃない?
バカなの?
映画のリアリティが、そのままリアリズムでないことはわかっているけれど、その許容というのがあって、ついその許容を超えたのが「大事な約束すっぽかし場面」。
ライアン・ゴズリング(以下男)がエマストーン(以下女)を映画に誘うんだけれど、約束の日に女はダブルブッキング。実は今カレとの外食する日だったのをすっかり忘れてやんの。
だって。
で、結局今カレとの食事を途中でほっぽりだし、男の元へ。本当に失礼な女だよ。
バカなの?
って。
エマなの?って。ああ、エマか。
あまりにも映画都合で登場人物が動くと「バカに見える」とう現象が稀にあるけれど、若干その現象に片足突っ込んでる気がしました。
とはいえ、人間誰でもダブルブッキングすることはあるでしょう。
僕もポスト和泉元彌と言われるほど、ダブルブッキンガーでなので、
「うん、まぁ、そういうこともあるよね!」と、なんとか一回だけなら気持ちを落ち着かせることができました。
が、しかし!後半、再度この<バカ熱>が男の方にも発症するのです。
男と女が恋仲になった後のこと。
女は女優になるという夢をかけ、演出脚本主演をこなすという独り舞台を敢行することを決意します。
男は男で、ジャズを流行らす夢をもっているのですが、やりたくないバンドのキーボードで人気が出てしまい、ツアーであちこち回っている状態です。
そして女の舞台上演の日。
なんと男はバンドの撮影(なんの撮影か忘れたけれど)が入っていたことをてっきり忘れているのです。
だって。
「来週の木曜日じゃなかったけ?」
だって。
で、結局女の舞台に間に合わないの。
バカなの?スケジュール管理できないの?
一本の映画でまさか2回もダブルブッキングしているところをみることになるとは思いませんでした。
タイトルが「ダブルブッキング」ならわかりますよ。
ダブルブッキングという伏線なしの安易な方法ですれ違いさせて、お話を展開させるのってどうなんでしょうか。
だいたい女も女で人生かける舞台なら2回くらい上演しろよ。なんで1回なんだよ、、ってどうでもいいことに腹が立ち始めました。
ミュージカル映画だし、脚本は二の次なのかもな。。。
確かに思い当たる節もあって、劇中に脚本家が登場するのですが、そいつをものすごく無様に描いてるわけです。
自尊心と見栄っ張りな小物感まるだしの脚本家なんです。
もしかしたらここに「映画は脚本じゃねーんだよ!」っていうメッセージが込められているのなら、ごちそうさま!!!!
そもそもこの映画、偶然が多いんだよね。
1 車の渋滞で偶然前後に並び、男に女が絡まれて一モメ。
2 女がたまたま入った飲食店で男がピアノを弾いている。女見惚れる。(きっかけ)
3 その後、知り合いのパーティーで偶然出会い、急接近
・・・多分もっとあったかもしれないけれど、最後のシーンで女が結婚相手と入った店で、男が<偶然>ピアノを弾いてる。
で、基本的にはお決まりパターンだし、この程度のことはフィクションならざらにあるわけです。
ウディ・アレンの映画なんて、偶然現場を目撃することが3回くらいあるからね。
もちろん、人生って度重なる偶然をこっちの主観で都合よく必然に錯覚させてるだけだから、全て偶然だと言えるんだけれど、ドラマにおいて偶然をどうどうと用いるって、態度としては怠惰じゃないのかなぁ。
怠惰だろうが!!
たぶん、ダブルブッキング要素と混ざるからその怠惰さが気になるのかもしれませんね。
ミュージカルだからいいのかな。にしては意外にミュージカル部分が少ない気がする。
ミュージカル嫌いのタモさんも、許容レベル。
思ったことその2
なんでジャズなの?
これは自分が気がついてないだけかもしれない。
音楽的な意味を何かに置き換えてたり、引用をしてたりするのかもしれない。
ただ、セッション見てるからか、この監督ただジャズが好きなだけじゃないの?
と勘ぐってしまうのも事実。
とはいえ、監督の偏愛が、作品にただならぬ情念を宿すことは多々あると思うので、それはそれでよい。
ライアン・ゴズリングの猛稽古の成果は見てるだけでも圧巻なわけだし、それって監督のジャズへの偏執的な執着があるからこそ成し得た偉業とも言える。
全てを理屈でテーマに繋げる必要はない。ないんだけれど、その繋げる過程で掘り起こされ発見される意識みたいなもが作る過程で生まれることもあるので、今後は「好きだから」で止めないでいただきたい(止めてねーよって?)
そういえば、セッションでもあったけれど、演奏シーンでの「カメラ高速180度パン」は、音楽はつながっているのだ!カットを変えてなるものか!という監督の強いこだわりを感じ大好きです。
あれはいつかパクろうと思ってる。
思ったことその3
夢に葛藤は必要なのか。
2幕目の終わりで、二人はお互いの<夢>のため離れること決意します。
そして物語は「5年後」に、飛びます。フィナーレへの序章です。
「ラブアゲイン」あるか????と観客は期待している状態です。
さて、女はどうやら女優で大成し、結婚して子供もいるようす。
お!男と結婚したのか!ラブアゲインじゃん!と誰もが思ったその時、知らない男が帰宅し、女とキスをします。
浮気か!!??いいえ、女は男ではなくとあるプロデューサーと結婚していたのです。
しかも2歳くらいの子供がいる。
切り替えはや!!!ニンテンドウスイッチ並みの切り替えスピードです。
まぁ女は焦る生き物なので仕方ありません。
で、子供をベビーシッターに預けて旦那と二人で外食をしに行きます。
そして、いつもと違う店に<たまたま>入ってみるとステージ上には男の姿が。
偶然にも、そこは男の店だったのです(出た偶然!)。
男は自分の好きなジャズを演奏するお店を持つことを夢見ていたので、ここで男の夢が叶ったことがわかります。
男と女、二人の夢が叶ったのです。
男は女が客席にいることに気がつき、女と出会った時に偶然引いていた曲を弾き始めます。
ここに素晴らしい体感があって、そのメロディーが流れ始めた時、観客と女の目線がシンクロし一斉に出会いを回想するのです。
エヴァに乗ってないことを後悔するほどのシンクロ率で、わお!ってなりました。
音楽の力を見せつけられた。
しかし、二人が回想するのは<もしかしたらこうなっていたかもしれないもう一つの世界>です。
つまり
<男と女が出会ってから、すれ違い一つなく、お互い結婚し夢も叶う”夢”の世界>です。
そこには葛藤はありません。
葛藤がないからこそ全て手に入れることができる、愛も夢も。
葛藤とは、等価値なものの選択で迷うことです。
つまり愛も夢も二人にとっては等価値で、結局、二人は夢を歩む人生を決断した。
愛も夢も二人にとっては選ぶべき対象のものであり、前提ではなかった。その弱さが<葛藤>を生むのです。
だとすれば、葛藤さえなければ人間は幸せなのではないだろうか?
しかし、それはありえません。人間の存在そのものが矛盾に満ちているからです。
そして映画は人間を描くものであり、つまり<葛藤>を描くことだとするならば、何もかもがうまくいく<おとぎ話>を、映画が描くことはありえません。
つまり、映画が見る<夢>として、最後の回想ミュージカルは描かれており、それこそがラ・ラ・ランドなのだと思いました。
映画は夢を見せてはいけない。
しかし、映画が見る<夢>なら、<夢>として見せてもいい。映像と音楽の力には、夢だけれどそれを不毛にさせない力があるから。
だから妙に最後は納得していまいましたね。
もしかしたら「ラブ・アゲイン」を期待していたフ女子どもは「納得いかない!切ない!やだ!二人くっつけ!!」って思うかもしれません。
そんな方々に言いたい。
とまぁ、いろいろ好き勝手言いましたが、『ラ・ラ・ランド』も『レ・レ・レミパン』も『シ・シ・シムラウシロ』も全部おすすめです!!